●常識の齟齬 〜私、あなた、そしてみんな。●

id:hizzz:20040516にコメントしたところ、『圏外からのひとこと』のessaさんが取り上げてくださった(http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20040517)。<ありがとうございます! インターネット技術にも関連付けられる話なんですね。そういうふうに書けるものなのか、と感心しました。考えてみれば、倫理とはみんなが生きやすくなるための「技術」なのでしたね。>


私が書いたコメントを要約すると、

「お前にはみんな迷惑してんだよ!」って何回も言われたことあるんですけど、「みんなって、あんたと、あと誰?」って聞くと、たいていは答えがない。
「俺はお前に迷惑している」と言われるならば、「わかりました。じゃあお互いがよりハッピーな状態になれるように話し合いましょうか」と言えるんですけどね。

ということなのだが、この問題については小さい頃から悩まされ、今なお悩み続け、しかも理解してくれる人が少ないので、こういった形で紹介してもらえたことは、本当にうれしい。

もし、このことによって、「みんな」という主語を使って責められたときに「みんなって、あんたと、あと誰?」と聞き返す人や、自分が「みんな」という主語を使いそうになったときに「みんなって、俺と、あと誰だろう?」と踏みとどまれる人が一人でも増えてくれたらいいと思う。そうしたら、私はもっと生きやすくなる。おそらく「みんな」も生きやすくなるのではないかと想像する。

切断されてしまう私


「私」の代わりに「みんな」という主語を使う、というのは「切断操作」という概念と深く関連しているだろう。私はこの概念を、先日のid:eireneさんの日記で知った(id:eirene:20040507)。

既存のコミュニティに属すると、私はいつも切断されてしまう。そのために、長期的な経済活動を行うことが難しくなっている*1

*1:不満を述べているのではない。事実認識を述べているのである。切断操作が起こってしまう理由は複数あって、そのうちのいくつかは私の過ちであることは言うまでもない。

常識の齟齬


さて、「みんな」という主語が使われる他のケースとして、こんなのもある。

「みんな我慢してやってんねんぞ!」

これも私が実際に何度も突きつけられた言葉だ。要するに、「お前も我慢しろ」ということだろう。


「みんな」が「俺」を意味している場合、「俺は我慢してやってんねんぞ!」ということになる。こんなことを言うのはアホだけだ。私には「ああそうですか、大変ですねえ、アホで」としか言いようがない。


「みんな」が本当に「みんな」(すなわち全員か、少なくとも大多数)を意味しているときはどうか。

こういう言葉を発する人は、「みんな我慢しているのだから、私も我慢するし、あなたも我慢すべきだ」という常識を持っている。そして、その常識が通用する範囲では、この言葉は有効である。


しかし私の常識は違う。
「もし本当にみんなが我慢しているんだったら、システム的な問題があるかもしれないね」というふうに私は発想する。そして、「みんなが我慢している問題を解決できたら効果は大きいね」(あるいは「ビッグビジネスになるね」)というふうに私は発想する。私はこれを極めて自然な思考の流れだと思っている。


「みんな我慢してやってんねんぞ!」と大学の教官が私に向かって口にしたとき、私はその研究室を去ることを決意した。なぜ、自分よりも思考レベルで劣るものに師事せねばならんのだ。
私は学問への興味を失って大学を去ったわけではない。むしろ、学問をしたいからこそ、そしてそこでは学問をできないからこそ去ったのである。


これは逆視点から見ると、異なる常識を持ったマイノリティを排除した、つまり切断操作が起こったということになるのだろう。
そして、そのようなコミュニティでは、思考レベルの高い者から順々に、コミュニティを去っていくのだ*1

*1:実際、その研究室では、そうなった。この人は本当にすげえなあ、と思っていた先輩が、まずいなくなり、次に他の人が病気になり、そして私が去ったのだった。その後どうなったかは詳しくわからないが、うわさによると後輩たちも苦労しているようであり、最も苦労しているのは最も優秀な後輩のようだ。こうやって、学問に必要な才能が学府から失われる。

しかし希望もある。


それにしてもブログってやっぱりおもしろい。自己組織化とはまさにこのようにして進行するのだ、というのが目に見える。

「みんなって、あんたと、あと誰?」と問う人や、「もし本当にみんなが我慢しているんだったら、システム的な問題があるかもしれないね」と思考する人が、一人、また一人と増えていくのが目に見えるようだ。この動きがある日相転移点を超え、突如としてマジョリティの常識が入れ替わってしまうということは起こりうる。


自己組織化の理論は、私に希望を持たせてくれる。


関連記事→id:Bonvoyage:20040520


(終)

追伸:類は友を呼ぶ。


id:sujakuさんがバックミンスター・フラーをキーワードとした「類は友を呼ぶ」現象について述べられた(id:sujaku:20040517)。
にゃはは。おもしろいっすね。


フラーのことは、後日腰を据えて書きたいと思っています。連載というか。「バックミンスターを読む」みたいな。
フラーはそんなに難しいことは言ってないのですが、理解するには理科的素養が少々いりますし、フラーにしろカウフマンにしろ、システム理論方面は誤解するとトンデモ系に扱われてしまいがちですから、そのあたりを噛み砕いて書ければおもしろいなあと思っているのです。
彼らの言っていることは、科学でもあり芸術でもあり、そして個人や人類にとっての成功法則でもあるのですわ。


(今度こそ終わり)