時間の概念 〜現在、過去、未来
地域通貨でもおなじみのミヒャエル・エンデは、童話「モモ」(ISBN:4001106876)の中で時間とは何かを語った。
未読の方の楽しみを奪いたくないので詳細は避けるが、エンデの時間概念を踏まえて、私なりに時間というものを考えてみる。
私たちは過去から未来へと流れる時間の中を旅する旅人にしばしば比喩されるが、それは完全に間違いである。
時間こそが、私たちに訪れる旅人なのだ。
未来が過去に変わるただ一点に私たちは立っていて、その場所のことを現在という。
現在は確かに現実である。
しかし、過去と未来はフィクションである。
未来はまだ現実化していないもので、頭の中に描くものでしかないから、それがフィクションであることはそれほどわかりにくくないだろう。しかし過去はどうだろうか? 過去はかつて現実であったもののはずだ。
こんな話を聞いたことがある。
交通事故の目撃者に、事故の様子を訊ねるとしよう。そのときに、「どんなふうに衝突したんですか?」と訊ねるのと、「どんなふうに激突したんですか」と訊ねるのとでは、ぶつかったインパクトやガラスの飛び散り具合などに関して、答えに違いが出るそうだ。
過去が現在において想起される、というのが現実だ。
やはり過去もフィクションである。
僕らが生きる物語 〜うそからでたまこと
うそには、ただのうそと、将来まことになるうそがある。
あなたが何かの商品を売る立場だとする。自分の商品を流行らせたい時、消費者に対してどのような呼びかけが有効だろうか。
「○○を流行らせよう!」「○○を買ってください!」と言うだろうか?
そんなバカな宣伝にお金をかけたら、事業がつぶれるわな。
「○○が流行っています!」「○○が売れています!」と言うのが正しい。
それは、その時点ではうそでも全然かまわない。消費者が、本当に流行ってそうだ、売れてそうだと思い込めば、それでいいのだ。うそは未来においてまことに変わる。
ということは、ひとまずおいておいて。
ともかく私たち人間は、「うそからでたまこと」式に生きている。つまり、自分の頭の中に描いたシナリオに現実を追い込みながら、そして、ときにはシナリオを修正しながら、生きているのだ。私たち人間が生きていくためには物語が必要なのだ。
今よりも素晴らしい未来が結果的にくる物語を自分のために構築し、それを信じ込めた人は自然と行動に向かうだろう。
逆に、今よりも素晴らしい未来が結果的にくる物語を構築できなかったり、構築できても信じ込めなかったりした場合は、変化を拒むだろう。ひきこもりたくもなる。
私たち人間が生きていくためには物語が必要なのだ。
もしも、俺は物語など必要としていない、俺はその場その場のリアクションで生きているんだ、という人がいるならば、それはにんげんではなくてどうぶつでしかない。
物語と、カウフマンの進化の仮説
しかし、ある種の社会環境においては、個人は「今よりも素晴らしい未来が結果的にくる」物語を描きにくくなる。
シナリオは予想外の出来事を飲み込みながら進行していくが、それが適度に起こるのが、シナリオを持って生きる人間にとって望ましい。
予想外の出来事がまったく起こらないシナリオはつまらなすぎるし、予想外の出来事が多すぎるとシナリオを描きながら生きることのメリットがなくなってしまう。
予想外の出来事が多い環境では、どうぶつ的にリアクションだけで生きていったほうが楽なのかもしれないが、それは不毛すぎる。
カウフマンなら、それを進化に対する逆行と言うかもしれない。(あたかも)シナリオを持っているほうが有利に進化できるように、進化の環境も進化してきた。
せっかくにんげんに生まれたのに、どうぶつになってどうする。
で、てめーはどうなんだ。
本当に大事なことだが、「予想外の出来事」というのは、私(=予想する主体)にとって予想外だ、ということなのだ。客観的に見て予想外だ、なんて言葉はありえない(同様に、上に書いた「社会環境」というのも、ある主体にとっての環境である)。
この数年、私にとっての「常識」が他の多くの人にとって「常識」ではない、という出来事をあまりにもたくさん経験したせいで、私は困惑しまくっている。
こういった「常識」が違うという経験は、まったくなければ退屈だが、ありすぎるとつらい。適度にあるのが望ましい。
私は私のためのシナリオをうまく描けずにいる。でもどうぶつにもなりたくないんだよう。えーんえーん。
(参照:id:ueyamakzk:20040512 id:svnseeds:20040510#p6)