街とは一体何だろうか? 〜架空の読者とのダイアローグ


じゃあ、僕は君に尋ねよう。「街とは一体何だろうか?」


ん? 「街とは人の生活するところ」?
うん。そうだ。そのとおりだ。でも、それだけではまだ足りないね。他にはない?


「街には建物がある」
そうだね。街には建物がある。建物には家とかアパートとかオフィスビルとかお店とかがあるね。他には?


「道路」
なるほど。道路があって、他にも電線・上下水道・ガスラインといったインフラがある。街路樹とか公園とかもあるね。なるほどなるほど。


「商売が盛んで、職場もあって、役所とかが揃ってる」
うんうん。


君は今まで、街を構成する要素をいくつか挙げてくれたんだね。ありがとう。でもさ、人は田舎にだって住んでるし、そこには道路も他のインフラも全部あるんだよね。商売も仕事も役所も、街にだけあるわけじゃないし…

ああ、そうかそうか。人や建物や道路や他のインフラや商売や仕事や役所なんかが「密」になってるところってことか。逆に、それが「疎」になってるところが田舎なわけか。確かにここまでくると、かなり近づいた感じがするね。


じゃあ、もし君が街をつくるとしたら、どういうふうに計画を立てる? もちろんシステム・アプローチをしてほしいんだけど。

ふむふむ。「何をどこに配置したら、建物とか道路とかインフラといったような街を構成する要素と要素の間の関係性が最も有利に働いて、人にとって住みやすくなるかを考えて、計画を立てる」わけだ。うーん。完璧じゃないか。


…。
実はさ、それこそが、ブラジリアやチャンディガールの、「失敗の烙印を押されて」しまった計画の立て方だったんだよ。


「何をどこに配置したら要素間の関係性が有利に働いて全体としての機能が最も高まるか」ってのは、建築家…というか、いかにもデザイナー的な考え方だよね。家やビルを建てるときは、建築家はそうやって考えるだろう。あるいは車を作る人も、同じように考えるかもしれない。

君は今、建築を建てるときや車を作るときの計画と同じように、街づくりの計画を立てようとしたんだね。つまり君は街を巨大建築と見なしたってことだ。


ところがね…。ちょっと考えてみよう。きっとすぐわかると思う。

「要素間の関係性が有利に働いて全体としての機能が最も高まっている状態」っていうのは、逆に言うと「ちょっと関係性が乱れると、あっという間にズドーンと全体の機能性が低下してしまう脆さがある状態」でもあるわけ。

だってそうでしょう? システム全体の機能性が構成要素間のシナジー(相乗効果)によって支えられているわけだから、そのシナジーが失われると途端にだめぽになっちゃう。実際には、シナジーを失って全体の機能性を低下させたりしたくないから、さっき君が言ったようなコンセプトで計画された街は、時間の流れに伴う(本来の街にとってはごく自然な)ダイナミックな変化を拒み続けることになる。

まあそれでも永遠に変化を拒み続けることはできなくて、結局いつかは変わらなきゃいけない。でも少しずつ変わることはできない(シナジーが失われて最悪になる)から、全部一気に取り替える必要がある。

だから、家とかビルとか車とか、そういうのはこのコンセプトでいいわけ。建て替え、買い替え、全面改修ができるサイズは。逆に、建て替え、買い替え、全面改修ができないサイズのものを同じコンセプトで作ったものは、街だろうが何だろうが、全部失敗作だ。


さて、一体全体、何がいけなかったんだろう。


実は、そもそも、街とは何かという問いへの答えが間違ってたんだ。君は僕が「街とは一体何だろうか?」と尋ねたとき、何て答えたっけ?

「街とは人の生活するところ」はいいとして、他の建物やら道路やらっていうのは、全部「構造」に関するものだ。

僕が思うに、構造の面からなされた街の定義は、どんなものでも全部間違いだ。構造を(直接的に)最適化しようとする都市計画も、(それがいかにシステム理論的に正しいものに見えるとしても)全部失敗作だ。


さあ、では「街とは一体何だろうか?」という問いへの、僕が考えた答えをいよいよ披露しようじゃないか。



●街へのシステムアプローチ 4●(id:Bonvoyage:20040809)へつづく。