●サッカーアジア杯●

内田樹さんとこのサッカーアジア杯の話題(http://blog.tatsuru.com/archives/000262.php)にコメントが殺到しているって、id:pavlushaさんのところで知った(id:pavlusha:20040802#p4)。

おお、ほんとだ。


内田さんは前日(http://blog.tatsuru.com/archives/000261.php)に、

メディアに寄稿するときは、そのメディアの読者層が詳しい話題を意図的に「はずす」のが戦術上の基本である。
情報誌には哲学のことを書き、学会誌にはホラー映画のことを書き、哲学書には武道の術理のことを書いていると、誰にも咎められずに「言いたい放題」ができる。
そして、専門家からのツッコミを恐れてびくびく書くよりは、怖い者なしで言いたい放題に書いたものの方が(学術的厳密性はさておき)、生産的なアイディアを含むことが多いのである。

っておっしゃっているのだけれども、もしかしたら言ってる先から地雷を踏んじゃったのかも。

サッカーと政治・イデオロギー


さて、内田さんの文章と、そこに寄せられているコメントに目を通した上で、僕はこのように思う。



まず事実としては、今回の件について、中国は少なくとも試合の上ではアウェーではなく「対戦カードとは無関係の第三国(しかもホスト国)*1」だったということを確認しておかなければいけないだろう。

確かにサッカーでは(他のスポーツでもよくあることだが)、強いチームと弱いチームの対戦が中立地で行われる場合、観客が弱いチームを応援したり、強いチームにブーイングを送ったりすることがある。しかしこれは普通、弱いチームが頑張ってくれたほうが試合が面白くなるからだったり、強いチームが名前や資金にものを言わせてチームを強化するのが気に食わなかったりするためだ*2。あるいは単なるやっかみかもしれないけど。


で、このように第三国でもアウェー的になることはある。けれども、重慶の中国人客のふるまいは、やっぱりちょっとおかしかった。

たくさんのアウェー、アウェー的な第三国での試合を戦ってきたジーコをして(彼はさぞかし目の敵にされてきただろうが、それをしても)異常だと言ってるんだけど、(少数のキチガイ客ではなく大勢の観客が)「帰れ」コールしたり国歌にブーイングしたりするのは普通のことではない。そもそも第三国ではなくアウェーだってこういうことはそんなにはない。強いチームがやっぱり強かったってなときには、ただため息をもらすだけだ。

重慶での話は、政治的イデオロギーが関与しているのは明らかだろうと思う。



じゃあ僕が、中国人観客がスポーツに政治的イデオロギーを持ち込んだからといって嫌な気持ちになったかと言うと、そんなこともない。暴力沙汰にならない程度に盛り上がってね、と思うだけだ。

僕は「スポーツに政治やイデオロギーを持ち込むべきでない」とは思わない。
正確に言うと、僕自身はスポーツに政治やイデオロギーを持ち込もうとは別に思わないが、だからと言って、他の人がイデオロギーを持ち込んだからといって、それを指摘してやめさせようとも思わない。また、他の国のスポーツを見ていて、その国の観客が政治やイデオロギーを持ち込んで声援を送ったりしているのを見ると燃えてきたり感動したりすることもある。
僕は「スポーツに政治やイデオロギーを持ち込むべきでない」とは思わない*3


「スポーツと政治は関係ない」ってのが国際常識だ、という意見もあったが、なんかそれも違うと思う。それは日本国内(あるいは他の政治的に比較的落ち着いた国)の常識でしかない。


   ★


サッカーと政治・イデオロギーというと、僕はスペインサッカーを思い出してしまう。


「スペイン」と言ってしまうと1つの国のような気がするが、実際にはスペイン、バスクカタルーニャ、アンダルシアといった複数の民族・国家の共同体という感じなんだそうだ。

スペインでは1930年代後半にフランコによる軍事クーデターが起こった。首都マドリーを占領したフランコは1973年まで独裁政治を行い、その間スペイン国内の独自文化を持つ他民族を抑圧した。ファシズムだ。抑圧されれば民族主義的な意識が強まって、レジスタンス活動もさかんになった。


そんな中、スペインサッカーは民族主義のエネルギーを吸って、つまり政治的イデオロギーを利用して、スポーツとしてビジネスとして成長してきた。1973年までだから、60代・70代のおじいさんに話を聞くと「収容所からホームチームの勝利をねがったもんだ」というようなのも出てくる。

レアル・マドリーバスク地方のアウェイ試合に出かけていったなんて言ったら、それは大変なことだった。暴力沙汰にもなる。フランコの圧政中には、バスク人バスク語を使うことを禁止されたし、ゲルニカという町は内戦で散々に破壊されてピカソの絵のモチーフにもなった。ETA(バスク祖国と自由)なんていう非合法のテロ組織もある*4

そこまで過激じゃないバスク人サポーターも、レアル・マドリーに対してブーイングをし、口汚い野次を飛ばしただろう。きっと「帰れ!」と叫んだに違いない。


ときは流れて。

民族間・地方間の対立はだいぶ穏やかなものになった。リーガ・エスパニョーラ(スペインリーグのことね)はイングランドプレミアリーグ、イタリアのセリエAと並んで、押しも押されぬ世界三大リーグの1つになった。

今もバスクのサポーターはレアル・マドリーの選手に向けて、やっぱりブーイングをし、口汚い野次を飛ばす。それに変わりはない。だがしかし、もしバスク人サポーターに今でも「帰れ!」と叫ぶかどうか聞いたらどんな答えが返ってくるだろう?

彼はきっとこう答えるに違いない。
「いや、そりゃあ、そう叫ぶときもあるかもしれないけど、心からそんなことを願ったりはしないよ。僕らにとって年に1回の、マドリーの奴らに目に物見せるチャンスじゃないか! 僕はその日をとても楽しみにしているんだ!」*5

こういうふうに考えるようになった人は、もう暴力的にやっつけようとは思わないだろう。だって、毎年仕返しするチャンスがあるんだよ?


民族主義のエネルギーを吸って成長したスペインサッカーは、民族間・地方間の対立が穏やかなものなっていく上で、重要な役割を担ったのではないかと思う。つまり、政治的イデオロギーを吸いつつも、それを暴力的なものから非暴力的で楽しいものへと向けてくれたのではないか。
暴力的に仕返しする代わりに、非暴力的に毎年仕返しするチャンスがあったほうが楽しいもんね。それは言われて気づくことじゃなくて、やっているうちに自然と気づくことだ。


そして「憎たらしい敵」は、いつの間にか「強敵(と書いて“とも”と読む)」となる。

レアル・マドリーは各地で悪役を演じると同時に、それらの地で確実にファンを増やしていった。今や、ホームチーム以外で好きなチームとしてレアル・マドリーの名を挙げるサッカーファンは――かつてマドリーから来た軍勢に破壊された町でさえ――多数派なのだ。


   ★


話は変わって。


僕は仙台に住んでいて、一時期ベガルタの応援のために毎試合スタジアムに足を運んだことがある。

仙台スタジアムは約2万人収容と、それほど大きくないのだけれど、観客席の上全体に屋根がかかっていて、これがもう素晴らしい音響効果を生んでくれる。歓声が逃げないのだ。満員に近い状態でベガルタがゴールしたときなんかは、ほんと、もうなんて書いたらいいかわからないくらいすごい。他のチームのサポーターも「あれはすごい」と言ってる人が多いので、他のスタジアムと比べてもほんとにすごいんだろう。


スタジアムに通い始めた僕は、サポーターとして2段階の変化をすることになった。


僕はまず「サッカーでは、サポーターの応援がこれほどまでにゲームに影響するのか!」ということを知る。

サッカー選手はサッカーマシンではない。

何千人、何万人の目。熱気。割れんばかりの歓声。歓喜。野次。ブーイング。怒り。

ホームチームの選手もアウェイチームの選手も、おかしくなる。なんて言うか、リミッターが外れて「こいつ、こんなことできるんだ!」みたいになったり、逆に力がまったく発揮できなくなったりする。ときには監督もおかしくなって、わけのわからない選手交代をしたりもする(そのほとんどははずれる)。


僕は、自分(たち)の声が、存在が、ゲームに大きく影響することがわかって、楽しくなってしまった。
そういうときは、とにかく何でもやってみたくなる。クラブチームだったから国歌はなかったけど、もし国際試合だったら、このときの僕はブーイングしたかもしれない。
いや、とにかく、面白いんだよ。これは経験した人しかわからないかもしれないけど、「ああ、こんなに違うんだ」ってくらい変わるときあるんだから。プロの試合が。

僕はもちろん、「帰れ!」と叫んだりもした。


それから何試合かして、「仕事とは言え、ブーイングを浴びせられるためにわざわざ遠いとこ来てくれてんだな、アウェイの選手って。」と思うようになった。相手がいなければ僕はブーイングすることすらできない。それはつまらない。
サポーターとして一回り成長したわけだ。
こうなると、対戦相手=「強敵(と書いて“とも”と読む)」と認識して敬意を払うようになるし、ブーイングにも若干愛情がこもるようになる*6。国歌のときはブーイングしないでおくか、とか、「帰れ!」だけはやめとくか、なんていうふうに、最低限のマナーを守ろうと思うようになるものだ。



重慶のお客さんを見た僕の印象は、「ああ、この人ら、第一段階にいるんだな」だった。

実際、オマーン戦、日本はかなり苦しめられた。それには客の影響が少なからずあったと思う。きっと、重慶の人たちは気づいたのだ。自分たちがゲームの1つのカギを握っていることに。

そこに政治的なもの、イデオロギー的なスパイスがちょっぴり入って、「ええい、日本なんかこうしちゃえ!」みたいな感じでエキサイトして、それほど悪気もなく、傍から見たらマナーに反することもやっちゃってるんじゃないか。僕はそんな気がした。

客レベル2に到達するには、何試合かこなすしかない。が、大抵の人は、何試合かこなすと自然とレベル2に到達する*7


とりあえず、向こうがこちらを「強敵(と書いて“とも”と読む)」と思ってくれるまで、しばらく続けていくしかないように思う。


   ★


まとめ。


とりあえず、当面の間中国がまとまってくれるのは内田樹さんがおっしゃるとおり重要なことだ。それが反日教育によってまとまっているんだとしても、確かにまとまらないよりましかもしれない。


スポーツには、特にサッカーには、ナショナリズムとか民族主義とか、そういう政治的イデオロギーのエネルギーを吸って成長する側面はあるけれども、同時にそういうイデオロギーを暴力的な方向から非暴力的でハッピーな方向へ向けてくれるという特徴もまた、ある。

ま、これはあくまでもスポーツをやっていくことの副産物であって、政治の道具としてスポーツを利用する発想は気に食わないけど(そういう意味では、スポーツをイデオロギーや政治と切り離すべきだってのは正しいと思う)、だからと言ってせっかくのおいしい副産物をドブに捨てなくてもいいだろう。


スペインサッカーの歴史を踏まえて、僕は今回のアジア杯のような営みを続けていくことで、中国をまとめるための反日教育の影響のうちのネガティブな部分を将来的にはかなり軽減できると思っている。

だから、今、中国人観客に対してマナーが悪いとか他国への敬意がないとか言いたい気持ちもわかるけど、そういうとこにいちいち突っ込むよりも、向こうさんが日本を「強敵(と書いて“とも”と読む)」と認識してくれるまで、あのくらいの事態は起こるのだ、と覚悟して続けていくしかないかもしれない。そうなってはじめて、敬意が生まれてマナーを守ろうともするわけだし。

ただ、暴力・流血沙汰だけは徹底的に避けてほしい、避けるべきとは思う。

*1:コメントのblogさんの発言を引用

*2:アンチ巨人とかね。

*3:ただ、スポーツがイデオロギーの違いなんかを超えてしまうことはたまにある。例えば共産主義者は、名前と金にものを言わせて優秀な選手を獲得して全世界的に金稼ぎをしているレアル・マドリーを好きじゃないかもしれないが、それでもマドリーの美しく流れる音楽のような攻撃を見たら思わずため息をもらしてしまうんじゃないだろうか。

*4:アイルランドのIRAみたいなやつ。

*5:実際、レアル・マドリーがアウェイでする試合は厳しい。どんな下位のチームでも、本気で牙をむいてかかってくる。サポーターの後押しを受けて、目に物見せようとして仕掛けてくる。他のチームに負けてもマドリーには負けないぞって感じで、気が抜けない試合展開になることが多い。対マドリー戦は全世界に放送されるってのもあるだろうし。「今シーズンのスタミナ全部使っちゃんじゃないの?」と思ってしまうくらいだが、ほんとにマドリー戦で燃え尽きてその後失速していくチームもたまにある。

*6:ところが、見かけ上は一層激しくなる。アウェイの選手は、ブーイングを受けると楽しそうにしている。だって悪役を演じに来てるんだもん。そして、そのブーイングを受けて楽しそうにしてるのを見て、僕らはさらに苛立ってブーイングする。愛だ。

*7:ごく一部のアホを除き。

川口能活の眼


サッカーネタついでに日本代表ゴールキーパー川口能活選手について気がついたことを書く。内田樹さんの身体運用論に通ずるところがあるから、せっかく(反応が大きいネタに)トラックバックしてるからこれも、と思って。


アジア杯の前、EURO2004の放送のゲストで出ていた川口を見たとき、僕は「ああ、ヨーロッパに行って、眼がよくなったなあ」と思った。

別に視力がよくなったとかいう話をするわけじゃないし(だいたい僕は川口の視力なんて知らない)、より男前の顔になったとか、そういう話をするわけでもない。


   ★


川口はEUROの放送の中で、アタッカーとキーパーの1対1のシーンを解説するときに、「ぎりぎりまでステイできる(動かないでいられる)のがいいキーパーだ」と何度も言った。確かに、相手より先に動いてしまったら即ゴールになってしまう。


アタッカーとキーパーの1対1は、内田さんが本の中で書いているような剣豪どうしの1対1の勝負みたいなもので、「時間を短く区切って使う」ということと「何かに気を捕らわれない」ことが大事になってくる。


相手のシュートコースのどこをブロックするかということを判断してから体を動かしてそのコースに入るまで1秒かかるキーパーに比べて、それを0.5秒でできるキーパーは相手アタッカーの動きを0.5秒長く見ていられるし、ディフェンダーが戻ってくるのを0.5秒長く待っていられるので、ゴールを守れる確率は上がる。

どのコースにシュートを打つか、あるいはフェイントするかを判断してから体を動かしてシュートを打ったりフェイントしたりするまで1秒かかるアタッカーに比べて、それを0.5秒でできるアタッカーは相手キーパーの動きを0.5秒長く見ていられるので、ゴールを奪える確率は上がる(レアル・マドリー、スペイン代表のラウルなんかはこういう感じのストライカーだ、とスポーツジャーナリストの金子達仁さんは言っている)。

これが「時間を短く区切って使う」ということだし、川口の言う「ぎりぎりまでステイできる」ということだ。どのくらい短い時間に区切って動けるかの勝負になる*1



と、このように先に動いたらやられるわけだけれど、相手に動きを読まれてしまってもやっぱり同じだ。ここで「何かに気を捕らわれない」ことが重要になる。気持ちが何かに捕らわれると、動きを読まれたり、読みを読まれて裏をかかれたりしてしまうからだ。


で、僕は川口の眼がよくなったなあと思ったのだ。


EUROの番組で、川口の眼は普通の人の眼に比べると焦点が若干合ってないような感じに見えた。これは、眼球の奥の筋肉がリラックスしていて、ものがよく見えていて集中しているんだけれども、何かに気を捕らわれることもない、軽い瞑想状態に入っているときの眼だ。

彼はきっとピッチでも日常的にも、そういう軽い瞑想状態のままで行動する方法を体得したんだろうなあ。彼との1対1の局面になったアタッカーは相当やりづらいに違いない、と僕は思った。

1対1って、もちろん得点の可能性が高い局面ではあるんだけど、だからと言ってキーパーが圧倒的不利かというと、実はそうでもない。なぜならばキーパーは防ぎきればいいだけであるのに対して、アタッカーにはディフェンダーが追いついてくる前にシュートを打ちたいという気持ちの捕らわれが生じやすいからだ*2。PKだって、“仕掛けなきゃいけない”のはキーパーじゃなくてキッカーだ。
そういう精神状態のアタッカーに対して、キーパーが捕らわれのない状態で待ち構えているようなときは、1対1であってもなかなかゴールが決まらなかったりする。


だから僕は川口の眼を見て「ああ、ますますいいキーパーになってきてるなあ」とか思っていたんだけど、そんなところにヨルダン戦の4連続PKセーブなんかがあって、「ほら、やっぱり」と僕は一人で喜んでいた。

今書いても後だしジャンケンみたいに見えると思うけど。



トラックバックしてるついでと言ってはなんだけど、内田樹さんと川口能活選手や金子達仁さんとの対談をしてくれたら面白いだろうなあ、とか勝手にリクエストしてみて、今日はお終い。


(終)




<追記>
いつも見に来てくれている方、ありがとうございます。
やっと更新する気力が湧いてきたので、そろそろまたクリチバの話を書きたいと思います。もう少し待っててね。



以下はキーワードに引っかかるために本文中の言葉を言い換えたもの。
アジアカップ レアル・マドリード レアル・マドリッド
 

*1:テニスなんかもそうなんだろう。ストレートかクロスかをボールを打つぎりぎりまで待って決められる選手のほうが強いし、相手のショットに対してどっちのコースに走るかぎりぎりまで待って動ける選手のほうが強い。

*2:もちろん、そういう時間制限の脅迫にまったく捕らわれない選手もいる。レアル・マドリー、ブラジル代表のロナウドなんかはそうなんじゃないかと思う。