生きる技術、死ぬ作法


ブログを書き始めて、だいたい1ヶ月になる。
このブログのサブタイトルは「日常へのシステム・アプローチ」だけれど、開始当初の数日間は「生きる技術 死ぬ作法」だった。これではちょっと悲壮にすぎるかな、と思ったので変えた。



交通事故に遭って、後遺症に苦しんで、「正直、俺もいつ死ぬかわからんなあ」と僕は心底思うようになった。
僕は、いつ死んでもいいような生き方をしなければならない。


僕にとって、これでは死んでも死に切れん、という状況は一体どんなものか。
交通事故死? 病死? 餓死? 長生きできないこと?


いやいや、そんなもんじゃない。


僕は僕なりに、生きる途中で課題にぶつかり、その都度「生きる技術」を学んできた。「みんな」という言葉を不用意に使ってはいけない、とかいうのも「生きる技術」の一つだ。システム・アプローチもそうだ*1
もし、たった今僕が死んだとしたら、今まで身に付けてきた「生きる技術」のほとんどが失われてしまう。まったくのゼロ。それじゃあ無駄死にじゃないか。


無駄に生まれて無駄に死ぬ。そんなのを人間の生き方と呼んでいいのか?

そんなんじゃ、僕は死んでも死にきれない。


僕はいつ死んでもいい準備をしておきたい。僕が死んでも、僕が今までの実際の経験から学んだ「生きる技術」を何らかの形で残しておきたい。だから、僕はブログを始めたんだ。


世界中に60億の人がいて、日本にも1億を超える人がいる。まだ生まれてきていない人も数えたら大変な数だ。中には僕と同じ類の課題に直面する人もいるだろう。

僕の話が伝わる相手は、そういう人の中のほんの一部の人でしかない。でも、それでもかまわない。たった1人だっていい。

とにかく僕は、僕が学んだ「生きる技術」をここに書き残しておく。読みたければ読め。読みたくなければ読まなくていい。使いたければ使え。肌に合わないなら無視してくれてかまわない。あなたには必要ない種類のノウハウなのかもしれないんだし。



こうやって僕は死ぬ準備を始めている。死ぬ作法を整えている。


それを進めていくうちに、だんだん自分自身の生き死になんか、ちっぽけなものに思えてくる。

おもしろいことに、自分なんてどうでもいいという思いが強くなればなるほど、生きる情熱がメラメラと湧いてくる。エネルギーが満ち満ちてくる。自分が、既に完全に自由な存在だということに気づく。


アートなんだよ。

これこそがアート。


無目的にただ火花を散らす生命のダンスなんだ。



僕はただ、僕のダンスを踊るだけだ。それを馬鹿にしようが茶化そうがかまわない(結構傷つくけど)。もし邪魔をするというのなら、僕はそいつを蹴飛ばしてダンスを続けるだけだ。

けど、もしあなたが一緒に踊ってくれるんだったら、それが一番うれしいなあ。



最後に、初心を思い出させてくれたid:sujakuさんに感謝!

書き終わって窓の外を眺めると、うっすらと青空も見えてきている。
本を1冊持って、散歩にでも出かけるか。

(終)

*1:僕は、それが理論的に正しいかどうかとか、論理的に説明できるかどうかとか、細かいところがどうだとか、そういうのには一切興味がない。議論が無限後退して実践からずれていくなんて、そんな馬鹿なことはしたくない(cf. id:kmiura:20040606)。そのノウハウが「使える」ものであれば、僕はそれを採用する。システム理論は、僕らの生を考えるに当たって、間違いなく「使える」。