常識の齟齬


さて、「みんな」という主語が使われる他のケースとして、こんなのもある。

「みんな我慢してやってんねんぞ!」

これも私が実際に何度も突きつけられた言葉だ。要するに、「お前も我慢しろ」ということだろう。


「みんな」が「俺」を意味している場合、「俺は我慢してやってんねんぞ!」ということになる。こんなことを言うのはアホだけだ。私には「ああそうですか、大変ですねえ、アホで」としか言いようがない。


「みんな」が本当に「みんな」(すなわち全員か、少なくとも大多数)を意味しているときはどうか。

こういう言葉を発する人は、「みんな我慢しているのだから、私も我慢するし、あなたも我慢すべきだ」という常識を持っている。そして、その常識が通用する範囲では、この言葉は有効である。


しかし私の常識は違う。
「もし本当にみんなが我慢しているんだったら、システム的な問題があるかもしれないね」というふうに私は発想する。そして、「みんなが我慢している問題を解決できたら効果は大きいね」(あるいは「ビッグビジネスになるね」)というふうに私は発想する。私はこれを極めて自然な思考の流れだと思っている。


「みんな我慢してやってんねんぞ!」と大学の教官が私に向かって口にしたとき、私はその研究室を去ることを決意した。なぜ、自分よりも思考レベルで劣るものに師事せねばならんのだ。
私は学問への興味を失って大学を去ったわけではない。むしろ、学問をしたいからこそ、そしてそこでは学問をできないからこそ去ったのである。


これは逆視点から見ると、異なる常識を持ったマイノリティを排除した、つまり切断操作が起こったということになるのだろう。
そして、そのようなコミュニティでは、思考レベルの高い者から順々に、コミュニティを去っていくのだ*1

*1:実際、その研究室では、そうなった。この人は本当にすげえなあ、と思っていた先輩が、まずいなくなり、次に他の人が病気になり、そして私が去ったのだった。その後どうなったかは詳しくわからないが、うわさによると後輩たちも苦労しているようであり、最も苦労しているのは最も優秀な後輩のようだ。こうやって、学問に必要な才能が学府から失われる。