●そのポートレートの色彩。●

昨日のコメント欄では興味深い議論が展開された。
宇宙を音楽と捉えたり、宇宙を数学と捉えたり、はたまた音楽を数学と捉えたり。いやあ、おもしろい。
こちら↓も楽しく読ませていただきました(id:jounoさん、ありがとうございます)。
http://homepage3.nifty.com/ataraxia/ataraxia03/lecture6.html


そう言えば、以前あるサークル活動を主宰していたとき、それまでの参加者とちょっと雰囲気の違う上品な感じの女性が2人いらしたことがあった(そのとき私は穴の開いたジーンズに、猿の惑星Tシャツぐらいな感じだった)。それで私は、そのお二方に挨拶する時に「私がいつも付き合っている種類の人と色彩の違う方なんで、今日はちょっと緊張してます。自分ももっとびしっとした格好してくればよかったなあ。」という感じのことを言ったのだが、「あらっ、あなた、おもしろい言葉を使うのね。“色彩”だなんて。」とすぐに指摘された。
はじめは自分ではなんのことやらわからなかった。自分としては、ごく自然に口をついて出た言葉だったから。でもよく考えてみると、確かにそうなのだ。
“色彩”という言葉は単にその人の肌の色とか着ている服とか、そういうのを指しているわけじゃない。どうやら私は人と会った瞬間、特に初対面の人と出会った瞬間に、1枚のポートレートを脳裏に描く癖があるようなのだ。“色彩”というのは単なる視覚情報のことではなくて、“そのポートレートの色彩”のことを言ってるわけだ。そこには、その人をどのように描くかという私の主観も当然入ってくるわけだが、それは無意識に行われるプロセスなので、意識の入り込む余地はない。意識はただ観察するだけだ。
それ以来、私は私が無意識のうちに相手に対して描く絵を楽しむようになった。おお、俺ってこの人のことをこういうふうに思っているのか、という自己の発見。これほど楽しいものはない。
それにしても、私は人を絵として、それも私が描いた絵として捉えているのだよ。あっはっは。傑作じゃないか。私の絵はよく幼稚園児並と笑われてしまう程度のものだというのに。なんてこった。