許容できる矛盾の、質的・量的な幅


★ひとつめ について

事実関係の確認、改善には、意義がある


あなたのアイデアが、多数派/少数派かどうか、ということによって左右されるものでは、本来あるべきでないはずだから。

俺もそう思うよ。だからこそ言ってんの。「みんな」という言葉に過剰な意味を乗せて使って、黙らそうとしてくるのはフェアじゃないじゃないかって*1
せめて相手が同じ土俵に乗ってきてくれる限り対話することができるけれども、土俵に乗ってこない相手とはどうすることもできない。コミュニケーションって双方向なんだよね、悲しいけど。これはやっぱり「自分のポリシーが正しいとおもってれば」済むという話ではないよ。



★ふたつめ について


姫のおっしゃるとおり、ポリシーが正しいかどうかは人数に左右されない。でも、実行レベルではどうだろう。

自分1人だけで解決できる種類の問題ではない場合、必ず政治的側面が出てくる。ポリシーが正しいかどうかとか、いいアイデアかどうかとかいうことも大事だけど、ある程度の人数を巻き込まないことには何も始まらない(必ずしもマジョリティに入らなければいけないわけではないけれども)。ポリシーやアイデアが素晴らしいからって、人が巻き込まれるというわけでもない。

でもそんな政治なんてさあ、姫の表現を借りれば、「薄っぺらくてありきたりの――差異のゲームの――貧しいもの」(id:Ririka:20040520)でしかないんだよ。ほんとは。ポリシーやアイデアそのものが持つ純粋さや豊かさやおもしろさに比べたらね。だけど政治は、つまり「モテ」は、実行レベルでは必要になってくるものではある。

俺は20日の日記(id:Bonvoyage:20040520)で、関心を持ってくれた方々に感謝しつつ、そういう矛盾をも表現したかった。だから、読んだ人が「おお、みんなそう思ってたのか」「みんな関心持ってんのか」と思うような演出さえした。ここでアイロニーに気づいてニヤリとしてもらいたかったんだよね。もちろん、単純にありがたいって思ったのが第一だけれど、そういうのも狙いに入れてた。

前日には、「モテ」は構造的な問題であって、構造さえ作ればモテるということを俺は書いていた(id:Bonvoyage:20040519)。それをねえ、ちょっとやって見せたんだよ。わかる人にはわかったかもしれないけど。あはは。くだらねえだろ?


だから、自らへの批判的視点がないと言われてしまうと俺は少し困っちゃうんだけど。



ポリシーと行動の矛盾は常に起こりうるし、それにある程度寛容にならないと何もできなくなっちゃう。人間なんてもともと、そんなに無矛盾で純粋な存在ではないよ。「命を大切に」とほざいた口で命を食らうのが人間の本質だと俺は思う。それでも、できる限り純粋にありたい、とも思う。

「許容できる矛盾の、質的・量的な幅」が各々違うというところが、つらかったりおもしろかったりするのかもしれないなあ。このあたりは、まだよくわからないや。



姫のコメントには、

みんな、と言われてぐさっと来たり、頭に来たりする人は、言ってる人と、前提・意識を共有しているから。(「みんな」が何かをしてる、ってことに、自分も従わなければいけないという強迫観念みたいなものがあるのかも)

というのがあったけど、これはちょっと当たらないな。少なくとも俺の場合は。

俺は、自分にアイディアが生まれたり、他人のいいアイディアを聞いたりしたときには、どうしても実行してみたくなってしまう。それには他人を巻き込まなくてはいけないときもある。それだけ。


(終)

*1:俺が「過剰な意味を読みとって」いるわけでは決してないと俺は思う。