話は変わって「みんな」再考 〜自分の中の「みんな」。


もう言葉が一人歩きしちゃっている。


言い出しっぺなだけに、コメントをもらったり他のブログで何か書かれたりすると、つい頭に血が上ってしまうのだが、俺の意見は俺の考えを代表しているわけであって、他の誰かを代表しているわけではない。少し冷静になってみる。

あらためて自分が書いた文章を読み返してみたのだが、自分のブログでご意見を書いてくれているような人も、ほとんど読んでないね。きっと。せめて、もうちょびっと俺が最初に書いたのを読み込んでから意見なり批判なりしたほうがいいと思うけど(俺の精神衛生のために)。
ざっと見た感じでは、俺は「みんな」なんてどうでもいい、って人ほど落とし穴にハマってたりして、それはそれでおもろかったけれども。自分で気づいてないんだよな。滑稽すぎる。


俺のコメントに対して的確じゃない意見、それから自らの体を張らずに上から見下ろしたような意見。こういうのは今後一切無視しようと自分に言っておく。それらの意見が例え俺の言葉を引いて語られたものだとしても。俺まで俺の言葉に踊らされる必要はないよな。


もちろん、中には質の高いご意見もある。
今日のid:svnseedsさんのご意見はおもしろかった(id:svnseeds:20040529)。体張ってるもんね。インスパイアされたので、またいろいろと書くことにする。それにしても彼の言葉を引用すると、笑いまで伝染してしまう。あはは。


id:svnseedsさんはこう語る。

自分の日記で「みんな」を検索してみたよ


修飾的用法ではなく(例:「いくら馬鹿馬鹿しいことでもみんながそれを信じていれば」)、話題になっている限定的用法(例:「どうしてみんなトレードオフの概念を理解しないんだろうか」)で使われているところをざっと見てみると、どうやらとても怒っているときに書かれたものだということがわかった。

これってやっぱり自分の中の「みんな」に怒ってるんだよなあ。何やってんだ僕は。わはは。


彼の文章を通して読むと、「みんなってのがよくわからんのです」というところから始まって、自分の中の「みんな」の発見に至っていて、すごく興味深い。私は、私の書いた文章を読んでもらうことをとおして、このように思考してもらいたかったのだった(と今、事後的に気づいた)。id:svnseedsさん、モデルみたいね。

自分の中の「みんな」って、実は私もよく使う。「私の印象ではそういう人はたいてい」とか言ってごまかすけれども長ったらしくてしょうがない。言い出しっぺだと言う都合上、「みんな」という表現を使えなくて私は困っているんだ。あははは。俺って矛盾だらけ。


さて、限定的用法が用いられるときの感情を想像するに、「疑問+行動を促したい+場合によっては怒り」という感じなんだろう。しかし、その言葉を発する人が自分自身を少数派におくか、多数派におくかで、ニュアンスは異なってくるように聞こえる。


話し手が自分を少数派においた場合、「本当は大事なのに」という枕詞が省略されている。id:svnseedsさんの「どうしてみんなトレードオフの概念を理解しないんだろうか」というのは、そのように理解できるのではないだろうか。
また、私の意見を要約すると、「みんな」という言葉の使い方に(本当は気をつけたほうがいいかもしれないのにも関わらず)、どうしてみんな無自覚なんだろう、ということになる。


話し手が自分を多数派においた場合、「どうでもいいことなんだから多数派に合わせてほしいんだけど」というような枕詞が省略されている。「週末の飲み会、みんな*1和食がいいって言ってるんだけど、どう?」というようなものがそうだ。


今の問題の焦点はここにありそうだ。


多数派に立った上での「みんな○○なんだから」という言葉が、私にとってもそれがどうでもいい種類の問題に使われたとき、私はほとんどのときは「それでいいよ」と答える。上の例で、もし集団内の権力者が和食がいいと言っていて、その意見を通すために飲み会の幹事が「みんな」という言葉を使っているとしても、それを咎めようと思うほど私は野暮じゃない。
このとき、「みんな○○なんだから」という言葉は行動を促す機能を果たしたと考えていいだろう。


多数派に立った上での「みんな○○なんだから」という言葉が、私にとってはどうでもよくない種類の問題に使われたとき、私は「おいおい、ちょっと待てよ」と言いたくなる。このときには、「みんな○○なんだから」という言葉は行動を促す機能を果たさないばかりか、むしろ逆効果になる*2

私が自分自身の仕事に対して妥協せず、なんとか自分で考えて工夫して取り組もうとしているときに、「お前はそんなことしなくていい。言われたことをやってさえいればいいんだ。なにぃ、まだ文句あるんか? みんな我慢してやってんねんぞ!」というようなことを言われると、私は傷つくし頭に来るしやるせなくなってしまう。
「俺はお前の仕事なんて何の意味も価値もないと思ってるんだ。お前も自分でそう思ってるんだろ?」と言われたような気持ちになってしまう。「あんたが、あるいはみんながそう思ってたとしても、俺は俺のやってることに意味も価値も感じていて、みんながどうであっても俺は妥協せずにやるんだ」という気持ちになる。と同時に、その人の「俺の仕事にも、他のみんなの仕事にも意味や価値なんてないんだよ」という諦めのようなものも感じてしまって、切なくなる。
(諦めと言うが、やはり我慢しているのだね。彼も葛藤している。彼の言いたいことは、「俺が苦しんでいるのと同じ葛藤をお前も持て」という意味になるわけだ。何なんだろうね、一体。私はそういうことを他人に言いたいとは思わない。自分のと同じ葛藤を、自分の後に続く人には味わわせたくないと私は思うのだが。(5月30日追記))。


そういうのがあって、私は「みんな」という言葉を無自覚に使う人とは、一緒にいづらくなってしまうことが多い。絶対に妥協できないことを妥協しない、ということは口で言うのは簡単だが、実際問題としてそれを貫いていくのは簡単じゃない。でも、しょうがない。これが私の性分だから。


ちょっと話が雑になってしまったか。


id:sivadさんもご指摘されているが、自分の中の「みんな」は、政治的レトリックとして持ち出されるものでしかない(id:sivad:20040529)。
レトリックに気づけば、「迷惑」のような抽象的な考えから離れて、実際の損害・コスト・リスクを誰がどのくらいずつ分担するかを考えることができる。

実際に損害が出ているのか。ただその人が迷惑だと感じているだけなのか。損害やコストを、誰がどのくらいずつ分担するのか。
相手が自分に求めること。自分が相手に求めること。そして、それは本当に相手に求めていいものなのかどうか。
話し合うべきポイントがはっきりしてくる。それこそが有用な考え方ではないかと思う。


id:flapjackさんの議論も参考されたし。→ id:flapjack:20040530


最後にあらためて書くが、俺の意見は俺の考えを代表しているのであって、他の人のことは知らない。
ただ、こういう人もたまにいるから、コミュニケーションにおいてはちょっと気をつけてみるとおもしろいかもよ、ということをモチベートしたいとは思うけれど。主として俺のために。


(終)

*1:この例での「みんな」は修辞的用法のときも限定的用法のときもあるだろうが。

*2:もちろん人によっては、どうでもよくないけど従うこともあろう。その場合は行動を促す機能を果たしているとしてよいだろう。