id:Ririka:20040607『自由意志と量子力学と』へのコメント。


カウフマンが言ってることというよりは、彼の本を読んで僕が思ったことを、かなり大雑把に書いてみる。量子論的世界観にカウフマンらの自己組織化のシステム論を自分の頭の中でミックスした無責任な妄想を。自由意志については少しだけ。



さて、世界が量子論的なものであると仮定して話をしよう。

つまりWyさんが言うように、「なにかが起こる確率を計算する方法として、/すべての可能な配位、(これは古典的な運動方程式、いわゆる決定論の原因となっている方程式をみたさないものも含んでですが)/について、とにかく全て足し上げるわけです。/重みをつけて。/そうすると何か数がでてきて、/実際実験とあうわけですね。これはびっくりですが。」というものして。


   ★


Wyさんはご自身の世界観を語る。
「空間方向時間方向ともにもうすべて『在る』ものを/『決まっている』ものを/僕らは体験しているだけなのではないかと思います」「僕がさっき「在る」と書いたのは、だから、/そういうフォーマリズムに書き直したときの/足し上げられるものひとつひとつのことですね。」

「もうすべて『在る』もの」が有限であって、それが全部わかりさえすれば、何がどのくらいの確率で起こってくるかも全部わかるということだから、決定論的な世界観をお持ちなんだろうと僕は解釈した。


注目すべきは以下のやり取り。

Wy : うまくいっているところは全部ですね

 Rk : ふむふむ。人間サイズは除外?

Wy : ええっと、「全て足し上げる」と申し上げましたが、

Wy : 勿論可能な配位ってのはめちゃめちゃ沢山あるので、

 Rk : うん

Wy : きちんと足し上げるのは無理な訳でして、

Wy : そこは、えいやと近似をするわけですが、

 Rk : はい

Wy : 人間サイズは複雑すぎて近似がうまくいかない。

 Rk : なるほろ。何が複雑さになるんだろう?

Wy : 一筋縄ではいかないということではないでしょうか:-P

そう。量子論量子力学)は、単純な系についてはかなりの成果を上げている。でも、複雑な系ではイマイチなのも事実だ。


じゃあ単純な系と複雑な系の違いって一体何なんだろね。

この辺からいってみようか。



Wyさんは「勿論可能な配位ってのはめちゃめちゃ沢山ある」とおっしゃっているんだけれども、単に「めちゃめちゃ沢山ある」だけなら、全部調べて足せばいいし、近似もできるはず。足し算がどんなに大変でも、そんなもんはコンピュータが全部やってくれる。
足さなきゃいけない要素が「めちゃめちゃ沢山ある」ことと、系の複雑さには何の関係もないのね。


結論を言っちゃうと、系の複雑さを決めるのは要素と要素の関係性なんだ。
ここで言う要素と要素の関係性ってのは、ある配位の重みと他の配位の重みの関係性。極端に言うと、「あっちが選ばれるなら一緒にこっちも選ばれる」とか、「あっちが選ばれると、こっちは選ばれない」とか、そういうこと。逆に、ある配位の重みと他の配位の重みが完全に独立した関係であるならば、系は複雑にはならないわけ。
「人間サイズは複雑すぎて近似がうまくいかない。」ということの原因の少なくとも1つはここにある。



…で、世界が決定論的かどうかというところに話を進めたい。


可能な配位は、めちゃめちゃ沢山あったとしても無限ではなくて有限なのは間違いなさそう。
エネルギー保存則ってのがあって、全宇宙のエネルギーの総量は常に一定で有限*1
人類の経験も有限。各個人の知恵や経験が有限で、全人間数も有限*2。有限×有限=有限。


量子力学が成功を収めてきたような単純な系の場合、可能な配位は有限で、かつ、すべての可能な配位を前もって記述することができる。そこではすべての出来事が決定論的に起こる。


でも複雑な系の場合には、つまり「あっちが選ばれるなら一緒にこっちも選ばれる」とか、「あっちが選ばれると、こっちは選ばれない」とかいうように、ある配意と他の配意に関係性がある場合には、可能な配位は有限ではあるけれども、すべての可能な配位を前もって記述することができなくなる*3。もっと具体的に言うと、システムが作動した結果として新しい可能な配位が生まれてきてしまったりもするのね。しかも、それはあくまでも結果として生まれてくるものであって、前もって予測することができないわけ。
かくして、複雑な系は決定論的でないようにふるまう*4



僕は世界のあり様により近いのは後者であるように思う(直観的かつ希望的に)。
そこでは「自由意志」とか「シンクロニシティ」とかいうのも、あっていい。なぜならば世界は決定論的なものではないから。僕はそう思う*5


(注)
自由意志ではなく違う言葉を選ぶべきだったかも。id:jounoさんが言ってることのほうが真っ当に見える(id:jouno:20040610)。

その人が「自分で選んだ」「自分には選択の権利がある」と思っていたにしても、それが実は決定論的な世界の中で既に決まっていた範囲内のこと、ということであれば、今の文脈ではそれを「自由意志」とは見なさない。…という感じに使ってみた。

「結果として新しい可能な配位が生まれて」くる可能性を含んでいるような選択ができる権利があるというか、新しいシナリオを紡ぎだせる権利があるというか。そういうニュアンスを伝えたかったんだけど、そういう言葉って他に何かないかなあ。




さてさて、ここで話はid:kmiuraさんのコメントに飛ぶ。

# kmiura 『時間の幅の取り方が関係しているんじゃないかなあ、と最近思っている。』


# kmiura 『直感的な話なんだけど、短期的に見れば自由意思(次の瞬間にコーヒーマグに手を伸ばす)、長期的に見れば決定的(死ぬ)、というようなことです。時間の幅をちいさく取ったミクロな過程はランダムでも、幅を大きくとったときには系の遷移はある程度決まっている、というような話は、いろんな階層であるので。統計物理の言葉で考えたら、これは測定の問題なんだろー。この場合は”あるように振舞っている”、というよりも、実際にある、ということになるのだと思う。』


決定論的ではないんだけど、だいたいの方向性は決まっている」「だいたいの方向性は決まっているけど決定論的ではない」というのが僕らの住む世界の実際の姿を一番よく表しているような気がする。


「あの人との偶然の出会いで俺の人生まるっきり変わっちゃったなあ」ということは、たまにある*6

ここで「まるっきり変わっちゃった」というのが、システムが作動した結果として生まれてきた新しいシナリオだったとしよう。


人生を変えてしまうような偶然の出会いという場合は、自分がほしがっていた情報や技能を出会った人が偶然持っていた、ということになるのではないか。こういうのは「シンクロニシティ」とよく言われる。シンクロニシティは「当事者や観察者にとって意味がある(あった)と思われる偶然」という感じの言葉ね。

で、この偶然の出来事から新しいシナリオに入って、バタフライ効果的にパタパタと「人生まるっきり変わっちゃった」というように解釈してみる。


いくら出会いがあったとしても、変わらない奴は全然変わらない。

「あの人との偶然の出会いで俺の人生まるっきり変わっちゃったなあ」という人は、「出会えば変わる状態のまま、ある程度の期間スタンバイし続けていたんだ」と考えられないか。そうすると、「同じ日同じ時、同じ場所で、同じ人」でなくとも「同じような日同じような時、同じような場所で、同じような人」と出会いさえすれば、その人の人生はやっぱり同じようにまるっきり変わっちゃったのかもしれない。その可能性は低くないんじゃないかな。


僕らにんげんはいくらか賢いから、まだ存在しないシナリオを想像して、そっちに向かうようにスタンバイしておくことができる。それから、偶然に意味を見出せる感性を磨くことができる。銃を構えて撃鉄を起こして、トリガーが引かれるのを待つ。で、「あ、今のでトリガー引かれたな」ということに敏感になっておくわけだ。
こういうことを知っておくことこそが新しいシナリオを紡ぎだせる権利そのものなんだろうという気がする。


どんなシナリオを想像・希望するかとか、シンクロニシティを感じる感性について考えてみると、その人の歴史的・文化的な背景は欠かせない。そういうところに目を向ければ、選択の幅はあらかじめ限られているわけで、だいたいの方向性というかパターンはある程度の幅に収まるということもわかる。

それでも新しいシナリオが始まる可能性は目に見えにくいけどいつもあるし、上に書いたことを知ってさえおけば新しいシナリオを積極的に選ぶこともできると。



なんかうまく言葉になってないかもしれないけど、決定論的な世界と決定論的でない世界の境界線のあたりの決定論的ではない世界に僕らは住んでいるのかもしれないな。

もちろん、これは「そういうふうに考えておいたほうが素敵じゃないか」という程度の妄想でしかないのだけど。



こんなもんで、どうだろ?


(終)

*1:ここで言う「エネルギー」には、E=mc^2に従って相互変換される「物質」を含む。

*2:人類には起源があって、いつか滅びるから。

*3:今回、ここんとこの詳細は省いちゃう。

*4:「非決定論的」と書きたかったが、goo辞書によると非決定論とは「人間の意志は他のいかなる原因にも支配されず、自身により決定されるという立場」とのことらしく、意味が違ってしまうのでこの言葉を使わなかった。

*5:ちなみに、量子論的不確定性と自由意志を関連させるのは間違いだと思う。不確定性は系が単純か複雑かに関わらず考えなければいけないこと。それに対して「自由意志」は、系が複雑なときだけに限ってありうるもの。…というのが僕の考え。

*6:いいほうの意味でね。戦争が私の人生を狂わせた、とかはおりあえず置いといて。