●どうすれば「頭のでき」が変わるか?●


街の話は昔読んだ資料を見直さないといけないので明日に引っ張っておく。


せっかくだから今日は、昨日(id:Bonvoyage:20040615)に引き続き内田樹さんからネタをいただいて少しだけ。


彼は昨日の日記(http://blog.tatsuru.com/archives/000169.php)で、こんなことを書いている。

けれども、大学の専門の授業の場合は、それに類することはまず起らない。
例えば、私が教えている現代思想のような科目の場合、学生さんがその科目を1年間毎週受講した結果、何かが「できた!」というような強烈な知的達成感を味わうということは、まずない。
学問に人間を向かわせる動機づけになる強烈な身体的快感とは、強いて言うと「脳が加速する感じ」なのであるが、これは経験したことのない人間にはどうやっても説明することができないし、そもそもこの世にそのような快感があるということさえ学生たちは知らない。
でも、武道も哲学も集中的な修業や、それがもたらすブレークスルーを可能にするのは、ある段階で経験した強烈な快感の記憶であることに変わりはない。
身体運用を動機づけるのが「私の身体にはこんな動きができる潜在能力があったのか!」という発見の快感であるのと同じように、知性の運用を動機づけるのは、「私の脳にはこんなことを思考できる潜在能力があったのか!」という発見の快感である。
身体的な達成感を獲得する方途については多くの経験的データとそれに基づく適切な指導方法が存在するけれども、「脳が加速するときの快感」、鼻の奥が「つん」と焦げ臭くなり、思考に「アクセル」がかかる感じについては、書かれたものも語られたものもほとんど存在しない。もちろん、どうやったら「アクセルがかかるか」について書かれたものも存在しない。

世の中には死ぬほど頭のいい人がいくらもいる。
けれど、そういう人たちも「私は頭がいいのでたいへんハッピーです(金も入るし、ちやほやされるし、うふ)」というようなことは絶対に口にしない。たぶん、『頭がよいので、気持ちがいい』というような題名の本を書いたら、ほとんどの人が題名を見ただけで作者に殺意を抱くからであろう。


殺意を抱かないでほしいんだけども(笑)、僕は子供の頃からずっと「頭がいいのでたいへんハッピー」だ*1。成績を上げるためにわざわざ長い時間かけて勉強したりする必要がなかったから、サッカーしたり水泳したり楽器を吹いたり女の子と遊んだり、たまに本を読んだりすることに、余力のすべてを注いでいた。そんなことばっかりやってたから、嫉妬されたり、ときにはぼこぼこっと殴られたりした。僕に殺意を抱いた人は、たぶんいっぱいいる。



僕が子供の頃よく言われた2つのセリフ。

  1. 「どうせ隠れてこそこそ勉強してるんでしょ、このムッツリガリ勉!」
  2. 「お前は俺らとは頭のできが違うんだ。」

こういう評価は「自分がいくら時間と労力を払って勉強しても遊んでばかりいるあいつに全然追いつかない」ことを何とかして言い訳しておかないと、その人自身が居たたまれなくなるがゆえのものなんだろうと思う。自分とまったく同じ部類(1)か、自分とはまったく違う部類(2)に押し込んでしまわないといられないんだろう。頭と心が不自由すぎるよ。かわいそうに*2


まあ、でも「頭のできが違う」というのは、ある意味当たってるかもしれない。もっと正確に言うと、「自分の頭のできが変わった瞬間に気づけるか」とか、「自分の頭のできの変え方を知っているか」という話になるんだけれども。


同級生からはよく「ここんとこわかんないんだけど、ちょっと教えてよ」という相談を受けた。それに付き合ったりしてあげると、「やっぱりお前は俺とは頭のできが違うなあ」とか言うわけだ。

でもね、「どうやったら頭のできが変わるの?」って聞いてきた人は誰一人としていないのよ。要するに、頭のできがよくない人は、頭のできそのものが変わるんだってことをそもそも知らないわけだ。


一方僕は、例えばサッカーをするときには「身体をどう動かせばもっと強いボールが蹴れるか?」とかいうことを常に考えながら遊んでいた。理科の授業で「作用・反作用」や「てこの原理」を学んだら、すぐそれを遊びに持ち込んだ。さらに、うまい人のフォームを見て「身体のどの部分とどの部分がどのように連動するとうまくいくか」ということをいつも考えていた*3。「運動神経が悪い人」ってのはたいてい部分と部分の連動性が悪くてぎこちないんだよね。自分の身体を俯瞰的にイメージすることができてないのかもしれないな。
それから、味方にパスを出すときには、味方の走りこむスピード、ボールの軌道、風の影響なんかから瞬時に連立方程式を立てて解く、ということをするわけだ。


音楽やってて和音を作るときは、「波長(振動数)」を考えながら楽器を吹く。1つの音波が1回振動するのに対してもう1つの音波が2回振動すると1オクターブ。1つの音波が2回振動するのに対してもう1つの音波が3回振動すると完全五度(ド・ソ)。振動数が整数比になるときれいに響く和音になるが、整数比から少しでもずれると途端に「うなり」が生じる(“うわんうわん”と聞こえる)。ピアノのド・ミ・ソの和音はうなる。うならないサウンドを作るためには、ミの音程を微妙に下げて整数比になるようにする。音量比もサウンドに決定的な影響を与える。サウンドってのは音と音の単純な足し算ではなくて音と音のシナジーをも含む、一種のシステムなわけだ。
で、この「振動数が整数比」というのは量子論に通ずるところがあって、なかなか奥が深い。


女の子と遊ぶときには、「この子はどんな物語をほしがっているんだろう? どんな物語を提供してあげたら一番喜ぶんだろう?」ということを考える。女の子が出してくる物語と、自分が出していく物語のサウンドを聞きながら進めていくのだ。
で、これは試験を受けるときには「問題作成者・採点者は、どんな答えをほしがっているんだろう?」になるし、新規化学反応の発掘のときには「分子たちは、どういう物語を作ってあげれば気持ちよく化学変化してくれるんだろう?」になる*4。ちょっとだけ営業を経験したときも「お客さんは、どんな物語をほしがっているんだろう? どんな物語を提供してあげたら一番喜ぶんだろう?」という考え方がとても有効だと感じた。



こういう経験を何回かしていくと、新しい情報に出会ったときに、ふと「これは使えそうだな」「あっ、ひょっとしてそういうことだったの?」という匂いを感じるようになる。このとき「脳が加速」して、一気に化学反応の(設計すべき系の)イメージが湧いてきたり、「自分の彼女の物語を、ああしてこうして…」とか、「お客さんにああしてこうして…」とか、「もっとうまく街をデザインするには…」とか、そういうイメージが浮かんできたりする。数学の教科書を読みながら、スポーツや音楽についての発見があったり、物語のパターンを見つけたりすることもある。

そういうときに「お、頭のできがちょっと変わったなあ」と感じるわけだけれども、これはものすごい快感なんだよなあ。快感だから、もっと頭のできを変えたいと思うようになる。
こういう快感は机に向かっているだけでは味わえない。だから「みんなもっと遊んだらいいのに。勉強は授業中だけにしておいても、あとは遊んでたら成績なんちゅうもんは勝手に上がっていくわい」とずっと思いながら、僕なんかはすごしてきたわけだ。「遊んでるのに成績がいい」という見方は間違いで、「遊んでるから成績も勝手についてくる」のが正しい。


ところが大学の研究室では、僕は遊びをする自由をかなり束縛されてしまった。そういうのに反発したというのもトラブルの一因ではあった。いやねえ、周りの人が遊びを「非生産的な単なる気分転換=時間の無駄」としてしか捉えていない限り、話がまったく通じないんだよね。「みんなシコシコやってるんだから、お前も遊んでないでシコシコやれ」と。
「シコシコやる」ってのは単純なトライ&エラーを繰り返しているだけで、打率を上げることをあまり考えてないってことなんだ。打率を上げるヒントはむしろ外から得られるってことを、彼らはほとんど知らないんだろうな。有限の時間内で目標を達成したければ、打数を上げるだけじゃ限界があるだろうにねえ。研究者・ある程度の偏差値の大学の学生って、必死になって机に向かって勉強して「受験戦争を勝ち抜いた」人のほうが多いのかなあ?
やりづれえよなあ、ほんと。これは「頭がいい」ことのアンハッピーな側面ってことなのかなあ。そんなのキライだ。非生産的すぎる。



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id:Bonvoyage:20040524 ●考えるんじゃない、感じるんだ! (Don't think. Feel.)●



さて、午後は都市デザインの資料あさりだな。これらの資料は久しぶりに読む。自分のものの見方が前と変わっている部分を楽しみつつ、明日の準備をしようっと。


(終)

*1:と言っても死ぬほど頭がいいわけじゃないけれど。せいぜい数百人から千人に1人くらいのどこにでもいる「ちょっと頭のいい奴」だ。以下、身近にいた「ちょっと頭のいい奴」を思い浮かべながら読んでもらうと、わかりやすいかもしれない。

*2:そんで、そういう人は「勝ち組/負け組」という図式に簡単にはまっていくのだろうね。僕は誰かに勝とうなんて思ったことはないし、だいたい頭がいい奴やスポーツがうまい奴で「俺は勝ち組になるんだ」なんて言う奴は見たことがない。

*3:これは今の僕がシステム論に興味を持ってしまったことと、ものすごく関係していると思う

*4:でも、実際の研究者・学生でこういう視点を持っている人は、あまり多くはいないように思える。これは僕から見るとまったくもって不思議なことだ。だって、分子を直接手にとって捕まえてガツンとぶつけて無理矢理反応させることはできなくて、分子が自発的に反応に向かってくれる環境作りしか人間にできることはないんだから。