●選挙を楽しんでみた。●

昨日の参院選は、個人的にすごく楽しませてもらった。
支離滅裂になるだろうけど、今日は思うが侭に書いてみることにする。


   ★


あまり熱心じゃない有権者である僕の情報ソースは、ドアポストに突っ込まれていた公報だけだった。ニュースも全然見なかった。自民党に投票しないことだけは決めていたものの、以前書いたとおり、民主党は自分が政権をとらないことを前提にした批判ばかりしているというイメージを僕は持っていて、応援する気になれない。だからといって、他に支持できる党もない。閉塞*1


「白票でも、いっか」というのが当日朝の正直なところだったが、棄権することは選択肢から完全にはずしていた。




僕は政治参加の意識が高いから、というわけではない。



数ヶ月前に全面的に建て替えたばかりの近所の小学校が僕の投票所で、中を一度見てみたいと前々から思っていたところだったのだ。
外観からはとても小学校とは思えないような、大きくて透明なガラスとアッシュ色のコンクリートの構造、銀色に光る鉄パイプ(みたいなもの)でデコレートされたモダンなつくり。かっこええじゃないか。

でもちょっと待て。普通、体育館が投票所になる。前の選挙のときもそうだった。校舎の中なんて見れるわけがない。今考えると、校舎の中を見れるのを信じて疑わなかった僕は、頭のねじが数本抜けている。ところがラッキーなことに、体育館は校舎の外ではなく校舎の2階にあった*2。さすが最新型! こうして僕は、選挙のスタッフが玄関から校舎内へと誘導していることに何の疑問も抱かず、わくわくしながら校舎に入った。

もちろん一部しか見ることができなかったが、僕が15年くらい前に通っていた小学校のイメージとは全く違うということはよくわかった。床がきれいなフローリングで、壁も木を基調としている。段差がなくエレベーターもついている。窓だけでなく、壁の代わりに大きなガラスを使っているところもあり、採光がよく明るい(子供たちがそのガラスを割ったりしないのか心配だが、割れないのを使っているのかな)。太陽光発電の設備もあるようだった。

僕のイメージの小学校の建物と言うと、リノリウムの床で白く塗られたコンクリートの壁。すぐ割れる薄っぺらいガラス。外観は小汚いクリーム色。「サル専用強制収容所」でも書いてありそうな感じだ。違いを見せ付けられ、「すっげーなー。小学校もここまで来てんのか。」と感心しまくり(今これを書きながら、「俺も老けたな」という思いが少し混じってきた)。




目的を半分以上果たし終えた僕は満足して投票に向かう。


結局、選挙区は現職で面構えのよかった民主党の候補に入れることにした(彼は当選した)。校舎を見て気分がよくなり、気持ちが大きくなったからだ。「まあ、しょうがねえなあ。政権担当能力を持った野党が出てくるとしたら、今のところここしかねえもんなあ。ま、応援しとくという意味で、一票。」


比例代表は、大政党に入れるのがなんか嫌だったけど白票もなんだし、みどりの会議にでも入れてやろうかと思ったが、投票用紙を見て僕は思わず立ち止まった。


「政党名か候補者名を書いてください。」


な、何?


「政党名か候補者名を書いてください。」


え? 比例代表って、政党だけなんじゃないの? どういうこと?
僕は混乱し、鉛筆を右手に持ったまま、しばらく固まっていた。


そのとき突然、頭の中でポツッとレコードに針が落ちた音がして、歌が流れ出す。

JASRACが恐いので歌詞は書かない(笑)けど、川は流れてどうのこうのとか、泣けとか笑えとかいうあの歌だ。


え、ええっ! とっ、止まらない! もう止まらないよ〜(泣)。


そして僕は、みどりの会議ではなく、「喜納昌吉*3と書いて帰ることになった。
帰り道、「結局、両方とも民主党に入れてしまったなあ」という思いと、喜納昌吉の歌に負けたみたいでなんとなくすっきりしないけど、まんざら悪くもないか、という思い。複雑。



帰ってきてからインターネットで調べてみると、比例代表は「非拘束名簿式」とやらなんだそうだ。
以前の拘束名簿式は、政党名を書けば、それに基づいて各政党の議席数が割り振られ、その政党が決めた名簿の順番に従って議員が選ばれる。非拘束名簿式では、政党名が書かれたものと所属する候補者名が書かれたものを合わせたのが政党の得票となり、それに基づいて各政党の議席数が割り振られ、政党内のランキングは各候補者の得票によって決まる。
ふむふむ、なかなかおもしろい制度じゃないか。少なくともエンターテインメントとしては。



夜、ビールを飲みながら選挙速報を見る。
大勢もはっきりしないうちからの自民党叩きにはうんざり。やめれ、ばかマスコミめ。最終的には(議席数で言えば)自民党のダメージはそんなでもなかった。


大勢が決まっても、喜納昌吉の当落ははっきりしない。非拘束名簿式だと、議席数の決定と、どの議員が当選するかの決定にはタイムラグがあるわけだ。結果を楽しみに待ちつつビールをすする。



速報の途中で、喜納昌吉の事務所の生中継がちょっとだけ放送された。
彼は明らかに「有名人候補者」なんだけれども、マスコミにも取り上げてもらえなかった。民主党のサポートも満足に受けられず、財産きり崩した。ほとんど有権者ダイレクトでやった。そんなようなことを言っていた。誰かが「次の選挙があるさ」とジョークを飛ばすと、こんなに財産消えてしまうならもう二度とやるか、という感じに答えていた。
そのとき、民主党比例代表で19議席と伝えられ、彼は17番目くらいだった。きわどい。



実を言うと、僕は『花(すべての人の心に花を)』の喜納昌吉オリジナルのは聞いたことがない。この曲は国内外で恐ろしい数のミュージシャンにカヴァーされている*4。僕はそのうちのいくつかを聞いている。初めて聞いたのは確か10年くらい前、テレビでBeginが歌っていたもの。外国かどこかにホームステイして、そこのホストのおばあちゃんに向けて歌った、みたいな、そんな番組だった気がする。僕はそのシーンを一生懸命見て聴いて、エネルギーを感じた。

歌そのものも素晴らしいんだけど、こういう歌が沖縄から出てきたということに、僕は心打たれてしまう。沖縄は広島、長崎と並んで「戦争に対して最も怒りをあらわにしていい日本三大地方」のはずだ。それであっても「泣きなさい、笑いなさい」なんだよ。しなやかでやわらかい強さ、キャパシティの大きさを感じるじゃないか。美しい歌。

喜納昌吉の選挙のキャッチコピーは「すべての武器を楽器に すべての人の心に花を」だった*5。武器を楽器に変えるプロセスを、怒りの感情で支えていくことはできない。泣くことと笑うこと。それしかない。

「兵器ではなく生活器を」と言ったフラーにも通じるなあ、とか勝手に思いながら自分が喜納昌吉と書いたことの理屈付けをして、本当は彼の歌の力に書かされたのだという事実を隠蔽しつつビールをぐいっと飲み込むと、僕の思考は窪塚洋介のことと自分の中学校時代の出来事へと飛んだ。




窪塚洋介が自殺しようとしたのか、それとも誤って落ちたのかは僕にはわからない。それは置いておいて、彼と親しい人が「自殺してもおかしくないくらい落ち込んでいたのは事実だ」とテレビで言ったのを、先日、昼飯を食いに言ったラーメン屋で偶然目にした。

彼が落ち込んでいたのは大麻に関する発言(大麻を植えれば永続的に紙が生産できる、だっけ?)へのバッシングだったわけだけど、自分が一生懸命やっていてもああやってつぶされてしまうことへの徒労感というか、何だか自分が必要とされていないような気持ちになったという話だ。僕は少しシンパシーを感じた。

ラーメン屋のおばちゃんは、「死んじゃえばよかったのに」とか、「この人、前から頭がおかしかったんだ」とか、大麻の話になると「ヤクやってたんだよ、きっと」とか言っていて、僕はすごく嫌な気分になった。



フラーの言った「兵器ではなく生活器を」も、喜納昌吉の「すべての武器を楽器に」も、窪塚洋介大麻に関する発言も、無理矢理まとめてしまえば、技術と人の意識の問題なんだろうと思う。「薬物としては絶対に使わない。紙の原料としてだけ使う。」という意識をすべての人間が持ちさえすれば、大麻ですら有効活用できてしまう*6。窪塚が言いたかったことは、結局はそういうことじゃないんだろうか。


僕は中学生の頃、先生に英語弁論大会に出てみないかと誘われたことがある。僕は「じゃあとにかく原稿だけでも書きます」と言ってOKした。日本語で書いた原稿を国語の先生に見てもらい、それから英語の先生に教えてもらいながら英訳するということになった。

僕は、環境問題やら社会問題やら、そういうのを最初にごちゃごちゃと書いて、それから「こういう問題が技術的に解決可能になるのは時間の問題だが、より大きな問題は人の意識だ。人の意識が変わらなければ技術が発達しても問題は解決しないが、逆に人の意識さえ変わってしまえば思ったよりも早く問題は氷解してしまうだろう」という感じのことを書いた(もちろん、もっともっと拙い文章で)。でも、こんな話は中学生の僕には荷が重すぎた。思考力も文章力も足りなさすぎた(だって僕がこういう話をできるようになったのはそれから10年後、今から半年くらい前の話だもの)。

国語の先生に原稿を見せると、「環境問題について書くのか、社会問題について書くのか、何について書くのかテーマをしぼって書きなさい。」と言われてしまった。僕はテーマをしぼったら本質を見失うという直観があって、その話を書こうとしていたわけなのに。それで僕は、「じゃあ、やめます。僕の言いたいことを理解して引き出そうとしてくれない人になんて添削されたくありませんから。」と言って、そこで話は終わってしまった。

今の僕だったら、「さて、今日のこの話の原稿を書くにあたって先生は『テーマをしぼれ』とおっしゃいましたが、その『テーマをしぼって各個に問題解決に当たる』という手法は、環境問題や社会問題などの複雑な問題に対しては、さほど有効でないのです。今日は、そういった現実に起こっている問題と人間の持つ意識がどのように関連して連動しているかということ、そして、問題解決に向けてどこからアプローチしていったらいいのかということへの僕の考えを、事例を交えながらお話したいと思います。」という感じで話を始めるかもしれない*7




…とかいうことをぐだぐだと考えながら、喜納昌吉の結果が出るのを待っていた。その頃、僕はビールを飲み終え、アサヒのカクテルパートナーのシーブリーズを飲んでいた。ウォッカ+グレープフルーツ+クランベリーという組み合わせ。僕はそれを聞いただけで口元が緩み、ヨダレが垂れそうになって、アル中のような顔になってしまう。


アル中と言えば思い出す。
あなたはアル中の人を見たことがあるだろうか? 幸いにして僕の家族や親戚にはアル中はいないのだけれど、1度だけコンビニの前で見かけたことがある。どこかのおばあちゃんだった。
彼女はステテコ姿でコンビニにやって来て、カップ酒を買う。コンビニを出るとくずかごの前に立ち、カパッとふたをあけて捨てる。それから、しわしわの口がカップの縁に吸い寄せられ、やわらかく接触する。ゆっくりと首の角度が上がっていく。ゴクン、ゴクン、という音はほとんどしない。酒は静かに、しかし絶え間なく、流れ込んでいく。ワンアクションで、カップ一杯の酒がなくなった。彼女はコップをくずかごにガランと落とすと、少しだけふらつき気味に短い歩幅でゆっくりとコンビニから去っていって消えた。僕はコンビニの向かいで信号待ちをしながら、そのおばあちゃんから目が離せなかった。




と、ともかく、シーブリーズを飲んでいると、ついに結果が目に飛び込んできた。


  喜納昌吉 民主・新 当選確実


あ、当選した。

時間は覚えてないけれども、夜中の2時とか3時頃だった気がする。




選挙って楽しいなあ。


僕が成人してから始めて投票したのは、平成12年(西暦2000年)6月25日の第42回衆議院議員総選挙だった。その年の4月に小渕恵三が亡くなって、森喜朗が首相になった。その頃から既に森喜朗の評判はガタガタだったのに与党が勝って、第二次森内閣が組閣されたのだった。

僕は当時入っていた大学のサークル室に仲間と集まり、ビールを飲みながら選挙速報を見ていた。石川2区の速報が出て、森喜朗がダントツで当確になると、みんなこぞって「おい! 石川2区の有権者の奴ら! お前らあったまどっかおかしいんじゃねえのか!」とテレビに向かって罵声を浴びせた。

僕の選挙区はと言うと、愛知和男(元国務大臣 環境庁長官 防衛庁長官)という自民党の大物がいて、彼に敵なしと言われていた。僕は自民党が勝てば森内閣が続くということだけはわかっていたので、それだけはかんべんしてくれい、と民主党の候補に投票した。


そしたら… なんと、愛知和男落選。当選したのは僕が投票した候補者だった。


だからと言って政治が変わるとか、そういうのでは全然ないんだけどね。エンターテインメントとして見れば、選挙もなかなかおもしろいというのが、そのとき以来、僕にすり込まれ続けているのだった。




さて、最後は少し真面目にまとめ。


喜納昌吉が当選したからといって、今すぐ何かが変わってわけではないだろうけど、彼のような感性を持った人が国会にいるのは悪くないような気がする。僕は今の政治には、問題の核心に遠慮なく迫るプリミティブな感性が欠けていると思っている。


例えば、僕らはすぐ「豊か」とか「幸せ」とかいう言葉を使う。僕らが豊かに幸せになるのを助けてくれる人を国会に送り込もうと思う。
でも、じゃあ「豊かさ」ってなんだ? 「幸せ」ってなんだ? と考えると、これがなかなか難しい。これ、他人に聞かせても納得してもらえるような自分なりの答えを持っている人ってどのくらいいます? ひょっとすると、みんな自分で何が欲しいかわからないままに、それが欲しいと言ってるのかもね。
それにしても、「豊かさ」をきちんと定義しておくのって政治や行政には欠かせないんじゃないの? だって、これこそ核心じゃないか。それなのに、恥ずかしいのか考えたくないのかどうなのか知らないけど、誰も「豊かさとは何か」を定義して聞かせようとしない。だから表面上の数字だけ見てどうのこうのという話になってしまう。
こういう根本的なところにもう一度立ち返って考えよう、話し合おうとすることができる人が必要なんだろうと、僕は思う(し、僕もこういうところに常に立ち返って、これからもブログを書いていきたい)。


と言っても喜納昌吉がそういうことができる人なのかどうかもわからないけど、『花』からはそういう何かを感じなくもないとりあえず見守ってみようと思う。

とか書くと、まるで前から彼を支持してたみたいにみえるな。あはは。歌のエネルギーに押し切られてくやしかったりうれしかったり変な感じなんだよね。



◆追記
一旦書き終えた後にインターネットで簡単に調べたところ、少しだけ期待度が高まった。結局世の中を変えていくのはアートなのかもね。アートってウソつけないもんな。


喜納昌吉&チャンプルーズ 公式サイト
http://www.champloose.co.jp/


かなり精力的にやってきているようだ。ひょっとしたら、従来の意味とは違った「たたき上げ」の政治家ってことになるのかもしれない。


(終)

*1:もしかすると、この閉塞感は、「政権交代が行われずに一定期間が過ぎれば、野党は次第に政権担当能力を失う」政治システムを構築してしまったという、初期段階のミスから導かれた自然な帰結なのかもしれない。

*2:この体育館は、小学校に併設している市民施設と共有されていて、そちらからも入れる。休みの日や夜は借りることもできるようだ。仙台市街地の割と新しい小学校には、この手の施設合体型がいくつかある。有効活用できていい。最近の流行りなんだろうか。

*3:きな・しょうきち

*4:未確認情報だけど、『花』の全世界的セールスは『Imagine』に並ぶとか超えるとかどうとか。中国人の9割がこの曲を知っているとかなんとか。

*5:各党、他の候補者のコピーと比べてみよう。何をしたいのかをはっきり表現しているものはほとんどない。

*6:「現実的にはそれは無理だ」という批判は受け付けない。なぜならば、「現実的にはそれは無理だ」という人の意識こそが、それを現実的に無理なものにしているというのが、ここでの主張だからだ。

*7:でもそんなの、数分で話すのは無理だ。クリチバの話だって、まだ途中なのに原稿用紙にしたら何十枚かになっちゃってるんだし。