逆視点 〜タイヤに当たって死んだ子供や私の事故をどう扱うか。


しかしここで、視点を逆にしてみると、別の側面が見えてくる。


先日、タイヤに当たって死んだ子供の母親がTVで「うちの子は何も悪いことをしたわけでもないのに」とかいうようなことを言っていた。他にも(交通事故以外でも)、裁判の手続きを踏んで決められた償いを受け取ってもなお、「これで私の○○が帰ってくるわけではない」とのたまう輩はしょっちゅう見かける。

そう言いたくなるのも心情的にはわからなくはない。しかし、私たちの住む社会は「それは言わない約束よ」ということで成り立っている。


私も交通事故*1の後遺症に1年も悩まされて*2、大学での研究も滞るし、こんなちょびっとした慰謝料をもらっても割に合わんと憤る毎日だった*3。自分の体が全然言うことを聞いてくれなくて、自分はポンコツになってしまったのか、もう何の仕事もできないかもしれない、と想像して、涙で枕をぬらしたのを覚えている。あのときは本当に恐かった。今でも、事故の前に比べると体が疲れやすいし、無理が利かなくなったのは間違いない。私は損失のすべてを相手方に償ってもらってはいない。


私はその事故において、純粋に被害者であったが、私はこの事故について責任があるのだろうか。
答えはYesだ。私が自らリスクを取って運転していたことの結果であるし、リスクを取って車社会の恩恵を受けている結果でもある。そういったリスクには「私に過失がなくても事故に合う」可能性が含まれている。もし私にそれを見積もる能力や覚悟がなかったとしても、そのように“外的に判断されてもしかたない”。


では、この自分自身には過失のない事故によって私が被った損失について、そのすべてを相手方に償ってもらってはいないが、これをどう考えるか。

私たちは、もし他の誰かに損失を与えてしまっても、そのすべてを償わなくてもいい。そのことの恩恵にあずかる一方で、もし他の誰かに損失を与えられても、そのすべては償ってもらえない、というリスクを背負っている。

もし選択の自由があってそのリスクを望んで背負ったわけでなくとも、恩恵にあずかっている以上、望んで背負ったものと“外的に判断されてもしかたない”。

すなわち、私が「自らリスクを取って運転する」という場合、「私に過失がなくても事故にあい、その損失を加害者が決められただけ償っても足りない場合でも、受け入れるしかない」ということが、そのリスクの中に既に織り込まれている。もし私にそれを見積もる能力や覚悟がなかったとしても、そのように“外的に判断されてもしかたない”。


タイヤに当たって死んだ子供の場合も、子供−保護者という軸を盛り込む必要があるが、ほぼ同様の議論が成り立つだろうと思う*4


私たちの社会には、法律や裁判というものがあって、そこで決められた部分だけしか償ってもらえない。また、不可逆な損失や代替不能なものの損失に対しても、代わりにお金でもらったらそれ以上文句を言わないように、ということになっている。

思いがけず他の誰かに損失を与えられてしまう私にとっては、ありがたくないことであるが。

*1:ちなみに私に過失はない。停止すべきところで停止していたところに追突された。

*2:ベッドから起き上がれなかった日が何日も続いた。

*3:憤ると言っても、事故の加害者に対する憤りはほとんどなかった。彼に訪れた種類の「ついうっかり」が私に訪れて、立場が逆になったかもしれないと思うと、彼を憎めなかった。しかし確かに私は「何か」に対して憤っていた。今は憤っていないかというと、実は今でも憤っている。それはそれでまた複雑な話になるので、後日あらためて書くことにしよう。

*4:さらに欠陥を隠していたという2重の問題があるが、それにしても、罪を認めて謝罪し、決められた償いを果たすのであれば、それ以上の追求はできないことになっていると言えるだろう。