責任の範囲と、損失を償う義務が生じる範囲


たくさんの人がいて、たくさんの人間関係があり、複雑な系として存在している私たちの社会においては、自分の言動の影響が思ったより広範囲に広がるということは、たまにある。例えばこのブログにしても、私が書いたことを読んだあなたの考え方が意識レベルまたは無意識レベルで変化して、あなたの将来やあなたの周りの人の将来に影響を与えるかもしれない。それは利益である場合もあるだろうし、損失である場合もあるだろう。


こういった間接的な影響を含むメカニズムによって、私の知らない誰かが、もとはと言えば私の言動のために、損失を被ったという場合(つまり私の言動がなければ、この損失は被らなかったというな場合)、私はそれについて責任があるのだろうか。

答えはYesだ。“外的に判断されてもしかたない”という定義によれば、責任がある、ということになる。
しかし、今採用している定義では、損失を償う義務については何も語っていない。損失を償う義務が生じるか、という問いであれば、YesのケースもNoのケースもある。


また、交通事故で人を殺してしまった、というような場合には、損失が不可逆な形で起こるし、損失の本当の大きさを見積もれない。

こんなことを言うのは馬鹿げているかもしれないが、人が死ぬとは、生きていればその人が将来したはずのことがなされなかった、ということでもあるし、以後この人の子孫が新しく生まれる可能性を排除するということでもある*1。家族や友人へ広がる2次的3次的な影響も小さくないだろう。また、この人との出会いがターニングポイントとなって他の誰かがしたかもしれなかったことの可能性も排除される、ということでもある*2。考えていくと際限がない。

この場合、事故の加害者は、このすべてについて責任があるのだろうか。
答えはやはりYesだ。しかし、このすべてについて損失を償う義務が生じるか、という問いであれば、Noだ。というか、償いようがない。


間接的な影響を含むメカニズムを考慮した場合や、損失が不可逆な形で起こった場合、損失の本当の大きさを見積もれない場合には、責任の範囲すべてについて、同じもので損失を償え、ということをやっていると、個人が償うべき他の人への損失が際限なく増え、個人のいかなるチャレンジも否定され、社会の存続自体が難しくなってしまう。それに、そもそもどうやって償ったらいいかわからない場合も多い*3


そこで、「責任がある範囲」の中で、「損失を償う義務がある範囲」を限定しなければならない。また、もとに戻らない場合は代わりの何かで償う、というようなことも決めたほうがいい。そういうことをやっておかないと、物事が円滑に進まなくなる。個人としても、恐くて何もできないということになる。

私たちの社会には、法律や裁判というものがあって、そこで決められた部分だけ償えばいいということになっている。また、不可逆な損失や代替不能なものの損失に対しても、代わりにお金で払えばいいということになっている。
思いがけず他の誰かに損失を与えてしまう私にとっては、ありがたいことである。

*1:そこには、アインシュタイン級の天才が生まれる可能性から、逆に大悪党が生まれる可能性まで、すべて含まれる。

*2:まあ、そういう人はまた別の似たような人との出会いでほとんど同じことをするかもしれないけど。

*3:だって不可逆ってもとには戻らないってことだし。