ヒツジを理解したければ、ヒツジだけを見ていてはダメだ。


昨日(id:Bonvoyage:20040521)からの続き。


そう言えば、某大学の農学部を散歩してヒツジを眺めていたとき、ヒツジを研究している人(40代後半くらいか)とお話しする機会があった。彼はこう言っていた。
「ヒツジを理解したかったら、ヒツジをどんなに細かく見ていても、ヒツジだけを見ているのではダメだ。それに最近ようやく気がついたんだ。ヒツジが食べる草のことも知らないといけないし、その草が生える土壌のことも知らないといけないし、ヒツジの糞の行方も知らないといけない。水や空気のことも知らないといけない。」


要するに、ヒツジを本当に理解したかったら、2通りの方法を両方やらなければいけないということだ。
つまり、ヒツジをよりミクロな単位体(臓器や細胞や分子などの構成要素)からなるシステムとして見るということと、ヒツジをよりマクロなシステム(=生態系)の1単位体として見る、ということ*1
言われてみれば当たり前のことなんだけど、従来の学問ではついつい見逃しがちだった、ということでもあるのかもしれない。


こんな話がある。
「科学」という言葉はもちろん“science”の訳語なんだけど、その語源は“scere”(ラテン語の「知る」)だそうで、本来は“science”も「知識」という感じの意味だったそうだ*2。それが、日本語に訳された19世紀後半のヨーロッパの学問状況では、数学・物理学・化学・生物学・地学・経済学などとカテゴリーに分けられていた。それを見て訳者は「分科の学」すなわち「科学」という言葉を当てたのだそうだ。「自分の重箱はこれ」と決め、それを一生懸命突っつくことが「科学」だ。システム論は、分科してしまった「知」を、あらためてまとめ直してみようか、という試みでもある*3

*1:とりあえずは、これで昨日のid:hizzzさんのコメントへのお答えになるでしょうか?

*2:「哲学」を意味する“philosophy”も、本来「知を愛する」という意味であって現在の哲学とはちょっと違う。ニュートンも「哲学者」と呼ばれたそうだし、彼自身、物理学だけでなく経済学などもやっていたそうだ。

*3:そして私は、最近の流行である「学際」という言葉が、ある重箱と他の重箱との間に新しい重箱を作る作業に過ぎないのであれば、そんなもんばっかりやったってしょうがないだろが、と思う。しかし、おそらく資本主義との親和性は高いから、そういう方向に行くであろうし、実際そうなってもいる。一方、体系的なシステム論を学べる大学なんてほとんどない。システム論は従来の「科学者」にとってはむしろ自分の存在を脅かすものだと受け取られるだろうから(彼らは専門分化して他人に入ってこられないようにして自分の領域を守ることをしばしば考える。だって、そうすれば簡単に「権威」になれるんだもん。それは短期的な競争の面では確かに有利で、それが今の資本主義と愛称がよさそうだと私が考える由縁。)、大学で体系的なシステム論が学べるようになるのはまだまだ先かもしれない。もっと多くの学者が、自分の社会的立ち位置よりも「知を愛する」ことを優先してくれるように願ってやまない。っていうか、そんなやつが学者気取ってるんじゃねえ、と言いたい。取り乱しました。