「頭」と「心」で4分類してみる。


ここで、フラーの定義に従って、知的能力という観点から人間を4つに分類してみる。


まず横軸に、得意分野の有無、特殊ケースの経験処理能力の有無という軸を取る。つまり頭の機能が高いか低いか。それから縦軸に、どんな特殊経験にも例外なく対応する一般原理を知っているか、見つけられるか、といった心の機能が高いか低いかという軸を取る。そうすると、以下のように4分類できる。

            心の機能

                 ↑
        器用貧乏   |    天才
                 |
 ―――――――――――+――――――――――→  頭の機能
                 |
      才能が未開拓  |  スペシャリスト
                 |


まず、頭の機能も心の機能も低い人は、何も才能が発揮されていない。しかし、これからまだ伸びしろがあるかもしれないので、未開拓ということにしておく。


私の高校時代の知人で、サッカー部だったやつとバスケットボール部だったやつがいる。
サッカー部のやつは、本当にサッカーがうまかったが、他のスポーツをやらせると全然ダメだった。彼をスペシャリストと呼ぼう。彼にバスケットをやらせると、足が速くて体力もあるから動きまくってくれるのだが、シュートもパスもうまくないし、ポジショニングや状況判断もイマイチだった。だいたい、シュートやパスがうまくなければ相手はマークしてこないので、いくら走っても残念ながら撹乱にすらならない(マークがついていてもシュートを決めてくる力のある人に2人マークがつくことになる)。
バスケ部のやつは、バスケットも抜群にうまかったが、他のスポーツをやらせても何でもできた。スポーツ全般に関して、彼は天才的だった。サッカー部のやつが単にサッカーに関する特殊技術を反復して身に付けていたのに対して、バスケ部のやつは自分の体のシステマティックな使い方、ある部分と他の部分をうまく連動させた身のこなしをよく知っていた。だから、どんなスポーツにも対応できるのだ。さらに、相手にとってどのエリアにボールを運ばれたら危険か、ということの一般原理を知っていたので、バスケだろうがサッカーだろうが、ポジショニングも状況判断もうまかった。こういう人と一緒にスポーツをやるのは楽しい。こっちがどう動けば相手がどう動く、というのが、打ち合わせをしたわけじゃないのにわかるようになってきて、コンビネーションがよくなってくる。
私はというと、一般原理をよく知っているので、何をやっても器用にこなせる。でもサッカーのスペシャリストの彼にはサッカーでは勝てない(バスケットは私のほうがうまかった)。何をやってもできるけど、その分野のスペシャリストには叶わないので、これを器用貧乏と呼ぶ。


とりあえず、これで4分類については納得してもらえただろうか。もちろん、仕事などについても同じことが言える。自分で考えてみてほしい。



図の左から右にいくこと(専門・得意分野を持つこと)の重要性は誰もが知っているが、図の下から上にいくこと(一般原理を知り、一般的な能力を磨くこと)の重要性を語る人はほとんどいない。
しかし実際には、スペシャリストは得意分野においても、いずれ天才タイプにかなわなくなってしまう。その理由は、知の蓄積が直線的になされるか、それともシナジー(相乗効果)的になされるか、というところにある。

ということで天才アインシュタインに登場してもらうことにする。

・専門的な知識を習得することではなく、自分の頭で考えたり判断したりする一般的な能力を発達させることが、いつでも第一に優先されるべきです。


・もし、わたしが物理学者にならなかったら、おそらく音楽家になっていたでしょう。わたしはよく音楽のようにものを考えます。音楽のように白昼夢を見ます。音楽用語で人生を理解しています。わたしは音楽から人生のほとんどの喜びを得ています。


   『アインシュタイン 150の言葉』(ISBN:4924751588)より

以前にコメント欄に書いたと思うけれども、アインシュタインは音楽が好きで、よくバイオリンを弾いていたそうだ。ご存知の通り彼は光量子仮説や相対性理論といった説を立てて、物理学に大きな貢献をした人だが、彼の物理学への理解と音楽への理解は、おそらくシナジー的だったのではないかと思う*1


私はサッカーを見るのが好きで、前はよくスタジアムに足を運んでいたし、今でもTVで各国のリーグを見たりする。バイトをしていた頃は、バイト先の仲間とよくフットサルをしていた。
最近は将棋を観戦するのも好きだ。子供の頃は自分でもよく指していた。今もヤフーなんかでたまにネット対戦するのだが、いかんせん定跡を知らないので、たいていは序盤に差をつけられてコテコテにやられてしまう。本でも買って少し勉強してみようか。
一方で、システム理論について学んでいる。

システム理論では、ある要素とある要素の関係性や連動性に着目する。システム理論を学ぶほど、サッカーのシステムについて、ある選手と他の選手の連動性について理解が進んでくる。あるとき、「なるほど、こういうふうに連動すると、全体としてリスクを抑えながら得点のチャンスを大きくすることができるのか」「こういうふうに連動すると、体力のロスを抑えながら相手のボールを奪うことができるのか」ということに、ふっと気づく。その気づきがシステム理論の学習にフィードバックされて、より深い学習が可能になる。
将棋でも、駒と駒の関係性、連動性が非常に重要だ。棋士は、自分の駒と駒の関係性を向上させようと「駒組み」したり、連動性を持った攻め(「手筋」と呼ばれる)を仕掛けようとしたり、また逆に相手の「駒組み」や「手筋」を崩そうとしたりする。また、「局面」という、システム理論の理解においても非常に重要な概念も登場する(これについては後日書こう)。

私にとってこれら3つの活動は、システム理論を学ぶとサッカーや将棋をより楽しめるようになり、サッカーや将棋を見ることでシステム理論への理解がより深まる、というシナジー的で幸福な関係にある。例えばシステム理論だけを集中的に勉強したところで、なかなかこうはいかない。これが、知の蓄積が直線的かシナジー的かという意味だ。


たぶん、アインシュタインにとっての物理学と音楽っていうのも、これと同じような関係にあったんじゃないかと、私は想像している。
天才のアインシュタインと器用貧乏の私じゃ比較にならんけどね。

*1:自分の中での物理学と音楽の関係をもっとズバッと表現していた文章があったと思うのだが、どの本のどこに書いてあったのか忘れてしまった。確か、感じ取った宇宙の音楽を数式に置き換えた、というようなものだったと思うのだが…