●批判ではなくネゴシエートを。●

さてさて、たくさんの方が取り上げてくださった「みんな」の話だが、実は続きがあった。
この経験こそが、批判ではなくネゴシエート(交渉)をしなければいけないんだ、と私が考えるようになったきっかけでもある。


私は、id:Bonvoyage:20040517にこう書いた。

■ 常識の齟齬


さて、「みんな」という主語が使われる他のケースとして、こんなのもある。

「みんな我慢してやってんねんぞ!」

これも私が実際に何度も突きつけられた言葉だ。要するに、「お前も我慢しろ」ということだろう。



「みんな」が「俺」を意味している場合、「俺は我慢してやってんねんぞ!」ということになる。こんなことを言うのはアホだけだ。私には「ああそうですか、大変ですねえ、アホで」としか言いようがない。



「みんな」が本当に「みんな」(すなわち全員か、少なくとも大多数)を意味しているときはどうか。

こういう言葉を発する人は、「みんな我慢しているのだから、私も我慢するし、あなたも我慢すべきだ」という常識を持っている。そして、その常識が通用する範囲では、この言葉は有効である。



しかし私の常識は違う。

「もし本当にみんなが我慢しているんだったら、システム的な問題があるかもしれないね」というふうに私は発想する。そして、「みんなが我慢している問題を解決できたら効果は大きいね」(あるいは「ビッグビジネスになるね」)というふうに私は発想する。私はこれを極めて自然な思考の流れだと思っている。



「みんな我慢してやってんねんぞ!」と大学の教官が私に向かって口にしたとき、私はその研究室を去ることを決意した。なぜ、自分よりも思考レベルで劣るものに師事せねばならんのだ。

私は学問への興味を失って大学を去ったわけではない。むしろ、学問をしたいからこそ、そしてそこでは学問をできないからこそ去ったのである。



これは逆視点から見ると、異なる常識を持ったマイノリティを排除した、つまり切断操作が起こったということになるのだろう。

そして、そのようなコミュニティでは、思考レベルの高い者から順々に、コミュニティを去っていくのだ*2。




*2:実際、その研究室では、そうなった。この人は本当にすげえなあ、と思っていた先輩が、まずいなくなり、次に他の人が病気になり、そして私が去ったのだった。その後どうなったかは詳しくわからないが、うわさによると後輩たちも苦労しているようであり、最も苦労しているのは最も優秀な後輩のようだ。こうやって、学問に必要な才能が学府から失われる。

私がかつて在籍した大学の研究室では、本当にそういうことが起こっていた。さらに聞いた話によると「この人は本当にすげえなあ、と思っていた先輩」の先輩も1人いなくなっていたそうだ。
そういう人たちは全部、「あいつらは心が弱い」で片付けられていた。


退学者がシステマティックに生み出されているということなんだろうと、私は今でも思っている。


   ★


さて、研究室にいたころ、私はただやられていたわけではなかった。


私が不登校がちになって、例の教官が激しい口調で私に迫ってきたとき、彼に対してこんなことを言ったことがある。

「どうして○○さんはそんなに俺を責めるんですか? 俺に落ち度がないとは言いませんけれども、1人、また1人と研究室を去っていくこの状況を、○○さんは学生をマネジメントする立場として何とも思わないんですか!」

批判として(あるいは非難として)、これほど的確な言葉は他になかろう。


しかし私は、怒りで顔を張り詰めていた彼が一気に落ち込んでいく様子を見て、こんなこと言わなければよかったとすぐに思った。



私は、私の考えが間違っていないことを証明できた。彼が落ち込んだということは、言っていることは正しいと彼が認めたということだ。批判としては大成功だ。

うれしいか? それで満足か?



実際のところ、状況を改善するどころか、私たちの対立が決定的なものになってしまっただけだった。

私は、せいぜい批判する程度の知恵しか持ち合わせていない自分自身を情けなく思った。


残念ながら、批判には何の生産性もない。
批判ではなくネゴシエートしなければいけなかったんだ、ということに私が気づいたのは、それからしばらく経ってからだった。


   ★


その教官だって、好きで私を責めたわけではなかっただろう。彼は普通の教官に比べたら、むしろ学生に対してフレンドリーなほうだった。彼からすれば、やむにやまれぬ事情もあったと思う。


実際、大学の研究室(特に理系かな)での人材マネジメントは、非常に難しいと私は思う。理由はいくつかある。


第一に、研究者の評価が結果主義にどんどん傾いている中で、論文投稿や特許取得といった短期目標と、教育という長期目標を両立させるのは、簡単じゃない。
短期目標に取り組まなければ、研究費も入ってこなくなるし、いい人材も集まらなくなる。かと言って長期目標を疎かにすると、人材が育たないためにいい研究ができなくなる*1
私の研究室では、「学生は教官の言う通りやっていればよろしい」という風土があった。それは確かに短期目標のためには合理的だ。だが、それでは学生の思考力が伸びないので、ブレイクスルーにつながるテーマ設定ができる人材がいなくなり、結果として重箱の隅をつつくような研究しかできなくなって、ジリ貧になる。
しかしこの問題は一般の企業も同じと言えば同じなわけで、大学特有のものではない。


一般の企業と異なっている点は、お金の流れだ。上司−部下の関係と、教官−学生の関係は、明らかに違う。
企業の場合は、「まあ、給料もらってるし、ある程度はしょうがないか」と働く人は思うだろうし、上司から部下への「給料もらってるんだから、ここは一つ我慢してくれないか?」という問いかけは、それなりに有効だと思う。
しかし大学の場合はそうではない。学生から教官へお金が流れている以上、本来は、教官は学生に教育というサービスをしなければならない。
「学位をもらえるならおとなしくしとこう」「教授のコネで就職先を紹介してもらえるなら、言うことを聞いておこう」と思っている学生に対しては、企業と同じやり方が通用するんだろう。
だがそれは、私のように「学問を通して、専門知識と一般的な問題解決能力を身に付けたい(そうすれば学位や就職なんてもんは自然とついてくるわい)」と思っている学生ならば、「こっちは金払って来てんだから、お前らもうちっとましな教育せんかい!」*2と言いたくなるような環境になってしまう。


さらに、私がいた研究室の特殊事情があった。
まず、教授が退官前だったせいか、どうしても研究の方向性が逃げ切りになりがちで、新しいことを始めようとか、長期的に考えようという雰囲気にはなりにくかった。
それに加え、教授の退官に伴って、研究室の規模が半分に縮小されるというのが決まっていて、スタッフ陣は次のポストを探さなければならず、ストレスフルな環境にあった。40手前の基礎研究者は、相当の実績がない限り、一般企業では生きる道がないのが現実だと思う。つぶしの利く職業ではない。家族を抱えているスタッフには特別に大変なことだっただろう。「うるせえ、お前は俺の言うことを聞いていればいいんだ!」と言いたくなる気持ちもわかる。

「どうして○○さんはそんなに俺を責めるんですか? 俺に落ち度がないとは言いませんけれども、1人、また1人と研究室を去っていくこの状況を、○○さんは学生をマネジメントする立場として何とも思わないんですか!」

私はこの言葉で研究室のシステム的な問題点を指摘したわけだが、教官は教官で個人的・システム的な問題に立ち向かっていたのだった。彼の落ち込んだ顔は、それを如実に語っているように見えた。




ちなみに、その後の展開→*3


   ★


批判は何も生まない。

批判というのは、どんなに気を使ったとしても「あなたは間違いで、私が正しい」という形式を取る。


学説を巡る論争などであれば、それでよい。
「あなたの説には、これこれという不備や、これこれという欠点がある。私はこれこれではないかと考えるがどうか。」
フェアな環境でそれがなされるならば、むしろ好ましいことだ。


しかし、人間どうしのコミュニケーションにおいて批判することは、物事が前に進まないという結果を生むだけではないか?
誰もが、それぞれの持っている情報や判断能力に従って、それなりに正しい選択をした/していると思うものではないかと私は思う。それが当たっているとすると、どちらがより正しいかにエネルギーを費やすのは、あまり賢くない。これからどうすればいいかに目が向かなくなってしまう。議論に勝ったって状況が何も変わらないのならば、そんなの自己満足に過ぎない。


私は自己満足でない、現実を変えていくためのノウハウを手に入れたいと思う。自分が考えていることが間違ってないと信じるならばこそ、それを実現するための能力がほしい。

それがネゴシエート(交渉)能力だと私は思っている。人を切り裂き、人の面子をつぶすような批判力ではない。相手の顔を立てながら決裂を避けて、ときには相手を癒しさえしながら、通すべき要求は通す(というか、うまいこと譲ってもらう感じになる)ような、柳のようなしたたかさ。


批判が「あなたは間違いで、私が正しい」という形式を取る以上、それは最高でもゼロサムゲームにしかならない。
ネゴシエートの場合はそうではない。お互いにメリットが得られるプラスサムゲームになりうる。


(明日につづく)

*1:研究費の割り振り方にも問題点がないわけではないだろう。それはシステム的な問題で、私が研究室で無力な一学生であったのと同じように、教官・研究室はより大きなシステムに対して無力だ。

*2:私はこれも面と向かって言った。

*3:その次の年度からは、その教官は他大学にポストを得た。彼は、そこでもまた不登校者を出してしまい、悪戦苦闘なさっているそうだ。私はというと、大学院進学とともに研究室を変えた。そこでは他大学から来たフレッシュな教官のもとで研究できて非常に楽しかったが、また別の問題があって、私はそこを去った。何やってんだろうね、俺(「結局てめえが全部悪かったんじゃねえの?」という批判は、甘んじて受けよう)。そこの研究室は今、有機化学界でなかなかのブレイクスルーを出している。本当によかったと思う。他の人が聞いたら「理屈は通ってるけどそれはないよ」と言うようなテーマだったんだけど、彼らはやった。そのテーマは、教官と私がディスカッションしてGOサインを出したものだった。後から聞いたら、私の予言がいくつか的中したのだそうだ。自分は実際にはほとんど関わってないから偉そうなことは何も言えないけれど、0.01%くらいは自分の貢献と、ささやかな誇りにすることだけは許してもらいたいと思っている。