●批判ではなくネゴシエートを。2●
今日も天気がいい。空が透明で気持ちがいいですね。とは言え、違う地方のことは私は知らないのだが。
id:sujakuさんに見透かされちゃった通り、私は早く他の話題を書きたいのだが、こっちはこっちで私のトラウマ(と言ったら大袈裟なんだけど)に関わっているから、見過ごすこともできずにいる。しかし、それも今日で最後にしたいと思う。(…だからか知らないけれど、テンションが少し異常なくらいまで上がっています。あまりお気になさらずお読みくださいますとありがたいです。)
まずは、昨日(id:Bonvoyage:20040601)書いたことをまとめなおす。
批判はどう頑張っても「あなたは間違いで、私が正しい」という形式にしかならない。
id:sujakuさんはid:Ririka:20040530#cで「批判は人格に対してではなく、発言内容に対してのもの、という前提を確認し、共有できるといいのですが・・・」とおっしゃった。
これに付け加えて言うならば、批判が上の形式を取る以上、発言内容や発言方法や発言態度に対する批判と、人格への批判を分けて表現することは不可能だ。なぜならば、「あなたは間違いで、私が正しい」というそれ自体無色透明の言葉が、「そんな間違いをするお前はバカ」というニュアンスを含むかどうかといったようなことは、批判の受け手側で判断されることだからだ*1。
だからこそ、id:sujakuさんは「前提を確認し、共有」という言葉を使っておられるのだろう。
実はこの「前提を確認し、共有」することで目が未来に向くように仕向けるのが、ネゴシエート(交渉)のミソである。
関係者の目が未来に向いてはじめて、批判は本来のブレーキ機能を発揮してくれる。ブレーキがよくきく車は速く走れるし、止まるべき時に止まれるし、十字路を曲がって別のもっといい経路を選択したり、別のもっといい目的地を目指したりすることもできるようになる。
ブレーキしかついていない車を買うくらいならば、物置を買ったほうがずっといい。