おまけ 国家とは何か?


フラーは国家の起源について、『クリティカル・パス』(ISBN:4826900848)の中で次のように語っている。

ここに巨人の時代をとおして、自分の民と群れの世話をしている羊飼いの王がいる。そこに、ウマにまたがり棍棒を腰に吊るした子男がやってきた。彼は羊飼いの王のところへ乗りつけ、頭上から見おろして言う。「さて、羊飼いさんよ、あんたがあそこで飼っているのはとてもみごとなヒツジたちだな。知っているかい、ここら荒野であんな立派なヒツジを飼っているのはかなり危険なんだぜ。この荒野は相当危ないんだ」。羊飼いは答える。「俺たちは何世代もこの荒野でやってきたが、困ったことなど一つも起きなかった」。
それ以来、夜ごと夜ごとにヒツジがいなくなり始める。連日のように、ウマに乗った男がやってきては言う。「まことにお気の毒なことじゃないか。ここはかなり危険だって言ったろう。なあ、荒野じゃヒツジがいなくなっちまうんだよ」。とうとう羊飼いはあまりに災難がつづくので、男に「保護」を受ける対価としてヒツジで支払い、その男が自分のものだと主張する土地で独占的に放牧させてもらうことに承諾する。
羊飼いが進入している土地は自分の所有地だというウマに乗る男の主張にあえて疑問をさしはさむ者はいなかった。男は、自分がその場所の権力構造であることを示すために棍棒をもっていた。彼は羊飼いの背丈をはるかに越えて高く立ち、あっという間にウマで近づいて羊飼いの頭をなぐることができた。このようにして、何千年も昔に二〇世紀でいうゆすり屋の「保護」と縄張りの「所有権」とが始まったのである。子男たちはこのときはじめて、いかにして権力構造をつくり、その結果、いかにして他人の生産力に寄生して生活するかを学んだのだった。
その次に、ほかのウマに乗った連中との間で、誰が本当に「この土地を所有している」と主張できるかを決する大規模な戦いが始まった。…

がはは。本質的に、国家は個人に対して「ゆすり屋」として機能するのである。国家について、これ以上何を語ることがあろうか。


もう国家について語るのはやめにしようではないか。だって、民主やら近代やらという冠をつけたところで、それは結局ゆすり屋でしかないのだから。

そんなことに意識を集中させていないで、私たちもフラーに倣って、頭のなかにたまった情報の汚染を取り除き、人間の持つ知性を全人類と宇宙のために用いて世界を機能させることに尽力しようではないか。
兵器ではなく生活器を。シナジー(相乗効果)に注目したシステムデザインを。

そうすれば、国家などという幻想に過ぎない代物は、自然とその役目を終えてしまうのである。


国家についての話題はこちらを参照。→id:eirene:20040519


(本当に終わり)