●「モテ」を見直す。 〜プリセッション●

id:sujaku:20040518で話題に上がっている「ミクロに見ると代謝、マクロに見ると循環」という言葉について、しかも建築に結びつけながら詳しく書くとなると、もう少し時間がかかりそうなので今日はちょっと違う話題を取り上げることにする。 

冷静ではいられなくなる「モテ」というテーマ


モテ論語録 → id:sujaku:20040506
モテ論壇  → id:hotsuma:20040519


どうして多くの人は「モテ」というテーマに対して冷静ではいられないのだろうか。
おそらくは、コミュニケーションへの欲望というか、人は一人では生きられないのだ、ということをどこかで知っている、ということなのかもしれない、とか勝手に思う(偏見)。しかし確かに、自分が他の誰かに相手にされない、というのは遺伝子的にも社会生活の上でも致命的なことだ。

「モテ」とはどういう現象か?


私はここであらためて「モテ」を定義しよう。

定義:「モテ」は以下のような現象である。
複数の人間からなる系がある。
系から任意の2人を取り出して観察する。ある人(A)が他の人(B)に魅力を感じて惹きつけられているとしよう。それを矢印を使って「A→B」と表現することにする。
そうすると、マクロに見た時には、ある特定の人には矢印の先が集中し、他の人には矢印の先がほとんど向いていない、という現象が起こり、これを「モテ」と呼ぶ。

重要なことは、「モテる者とモテざる者」があらかじめ存在するような考え方はまったく間違いであり、頭のなかの情報の汚染であることだ。「モテ」は関係性において決まってくる現象であるからだ。

2種類のモテかた


さて、モテかたには大きく言って2種類あると私は思う。それを仮に「新庄型モテ」と「イチロー型モテ」と名づけることにしよう(何ら批判の意志はない)*1


新庄型モテを主に構成するミクロな二者関係は、矢印で表すと「→←」で示される。
これはトレードを意味している。すなわち、「あなたが私を愛してくれるならば、私もあなたを愛する」ということをお互いにやっている関係なのである。

この場合、レバレッジが利かない。なぜならば、私があなたを愛することをやめたならば、あなたは私を愛することをやめてしまうからだ。
新庄の場合はマスメディアというレバレッジを利用しているからファンも多いが、そうでない一般の人がこの方法を用いても、モテの構造を作ることは難しい。


対して、イチロー型モテを主に構成するミクロな二者関係は、「↑←」で示される。
イチローは、子供のような純粋な好奇心で野球に対して正面から取り組んでいる。求道者と言っても差し支えないほどのそのあり方に対して、ファンは心惹かれる。そこにトレードという考え方はない。

この場合にはレバレッジが利く。ファンは、イチローが自分のことなど気にしていなくてもかまわないのであるから、ファンがいくら増えようともイチロー自身の負担はそんなに増えることはない。
イチローはきちんとそのことがわかっていて、真正面に野球を見据えつつ、視界の端っこのほうでは、ちゃんとファンのことを見ているよ、という態度を常に維持している。賢い。


もちろん、新庄もイチローも、両方のモテかたを適宜用いながらモテていることは言うまでもない。しかし、新庄ファンとイチローファンでは明らかに性質が違う、ということは想像に難くないだろう。


私は、この構造自体は恋愛においても適用できると私は考えている。
モテたければ「↑←」の構造を作ることだ。そうすればレバレッジが利く。ある段階からは「モテるがゆえにモテる」というポジティブ・フィードバック状態に入っていく。
「モテたくないのにモテる」のをどうにかしたい、という話の場合、これはまさに望まずして「↑←」の形ができているということだと私は思うのだが、なんとかしてこの「↑←」の関係を崩してしまうことだと思う。しかし、それはイチローに対して「モテたくなければ野球をやめろ」と言うのに等しいかもしれない。仕事ができる人はどうしてもモテちゃうだろうし。困ったね。


最後に、顔がいいからモテる、という種類の話に関しては全然興味がないので、削らせてもらった。俺は顔が悪いからモテないんだ、という考えは「頭のなかの情報の汚染」でしかなく、そう考える人は永久にモテない。もしモテたければ、己の持てるモテる要素を探して磨くのみ、だ。

*1:その他もあるだろうが少数派は省略。もし何かあったらコメントください。

90°方向の効果とは?


ということで、「モテ」に関する情報汚染を少しは取り除くことができた(?)ところで、フラーに話がつながる。


実はフラーはこの「↑←」あるいは「↑→」の形で物事が起こることを、「90°方向の効果」と呼んだ。

ミツバチは、蜜を集めるために飛び回る。それはもちろん「自分または自分の仲間のために」集めているに過ぎない。しかし、ミツバチはそれをする過程で、「ついうっかり」植物の受粉に手を貸すことになる。

フラーはこの「ついうっかり」に対して、「90°方向の効果」と名付けたのだった。そしてこれはシナジー(相乗効果)の一つの形態である。


ミツバチは「ついうっかり」とは言え、植物の受粉に手を貸してしまった。もう少しよく考えてみよう。それは単に植物に手を貸しただけでなく、自らの来年の食料を保証する行動であるのがわかるだろう。

ミツバチが、来年の飯のために受粉に手を貸したのではない。しかし傍から見ていると、あたかも来年の自分自身のための合目的的行動にも見えてしまうではないか*1

このようなことをフラーは発見したのだった。


トレードを根本原理として、お互いにできるだけ効率を高めようとすると、必ず奪い合いになる。もし宇宙が効率的で、かつトレードを原理とするならば、宇宙は、地球は、生態系は、今のような豊かな姿にはなり得なかったはずだ。

シナジーを根本原理としているからこそ、自然は今の豊かな姿になりえたのだ、とフラーは考えていたに違いない*2


この話は、物理でいう「回転モーメント」や「プリセッション」の話に通ずる。


プリセッション(Precession)
http://www002.upp.so-net.ne.jp/a-cubed/aero-misc/precession.html


内田樹さんの日記(4月2日、3日)。
http://www.tatsuru.com/diary/2003/03.04.html
コマは「倒そうとする方向よりも回転方向90度先に倒れようとする」… 合気道における、回転運動している相手を動かそうとすると90°方向に倒れる動きについての話。おもしろくてわかりやすい。おすすめ。

*1:ほんとにそうだと考えたら非科学的になるんだけど。科学と非科学の違いは、「あたかも」という言葉にある。

*2:そしてこの思想は、その後の複雑系科学へと意識的・無意識的に受け継がれていったと思われる。

今日のまとめ


イチローは主として野球に没頭することで「ついうっかり」ファンを魅了していて、結果として莫大な収入を得ることになっている。ここにミツバチのアナロジーを適用できるだろう。

しかしミツバチならぬイチローは、目線レベルにおいては野球のことしか見ていないが、メタレベルにおいては、「これが俺流のファンサービスなんだよ。お前らもこういうほうがいいんだろ?」と激しく呼びかけてもいる。このメタレベルでのコミュニケーションこそがミツバチと人間の違いなのだろう。

そして、こういった論理構造を理解できる人はイチロー中田英寿のファンになり、理解できない人は「あいつらはファンサービスが少ない」*1と言って、新庄のファンになったりするのである*2


最後に、参考までに。
この数年、本をバカバカ売っている本田健という経営コンサルタント・作家がいて、彼は「まず好きなことをして、それから儲かる仕組みを作れ」と言っている。これも「90°方向の効果」を意味している。まあ、いろいろ批判される人でもあるが、その点は理に叶っているんだろうなあ。フラーも、宇宙のために働けば宇宙によって食わせてもらえるって言ってたし。
http://www.aiueoffice.com/


(終)

*1:なんということだ!

*2:これは批判ではない。「ただ踊ってるだけ」(ワラ

おまけ 国家とは何か?


フラーは国家の起源について、『クリティカル・パス』(ISBN:4826900848)の中で次のように語っている。

ここに巨人の時代をとおして、自分の民と群れの世話をしている羊飼いの王がいる。そこに、ウマにまたがり棍棒を腰に吊るした子男がやってきた。彼は羊飼いの王のところへ乗りつけ、頭上から見おろして言う。「さて、羊飼いさんよ、あんたがあそこで飼っているのはとてもみごとなヒツジたちだな。知っているかい、ここら荒野であんな立派なヒツジを飼っているのはかなり危険なんだぜ。この荒野は相当危ないんだ」。羊飼いは答える。「俺たちは何世代もこの荒野でやってきたが、困ったことなど一つも起きなかった」。
それ以来、夜ごと夜ごとにヒツジがいなくなり始める。連日のように、ウマに乗った男がやってきては言う。「まことにお気の毒なことじゃないか。ここはかなり危険だって言ったろう。なあ、荒野じゃヒツジがいなくなっちまうんだよ」。とうとう羊飼いはあまりに災難がつづくので、男に「保護」を受ける対価としてヒツジで支払い、その男が自分のものだと主張する土地で独占的に放牧させてもらうことに承諾する。
羊飼いが進入している土地は自分の所有地だというウマに乗る男の主張にあえて疑問をさしはさむ者はいなかった。男は、自分がその場所の権力構造であることを示すために棍棒をもっていた。彼は羊飼いの背丈をはるかに越えて高く立ち、あっという間にウマで近づいて羊飼いの頭をなぐることができた。このようにして、何千年も昔に二〇世紀でいうゆすり屋の「保護」と縄張りの「所有権」とが始まったのである。子男たちはこのときはじめて、いかにして権力構造をつくり、その結果、いかにして他人の生産力に寄生して生活するかを学んだのだった。
その次に、ほかのウマに乗った連中との間で、誰が本当に「この土地を所有している」と主張できるかを決する大規模な戦いが始まった。…

がはは。本質的に、国家は個人に対して「ゆすり屋」として機能するのである。国家について、これ以上何を語ることがあろうか。


もう国家について語るのはやめにしようではないか。だって、民主やら近代やらという冠をつけたところで、それは結局ゆすり屋でしかないのだから。

そんなことに意識を集中させていないで、私たちもフラーに倣って、頭のなかにたまった情報の汚染を取り除き、人間の持つ知性を全人類と宇宙のために用いて世界を機能させることに尽力しようではないか。
兵器ではなく生活器を。シナジー(相乗効果)に注目したシステムデザインを。

そうすれば、国家などという幻想に過ぎない代物は、自然とその役目を終えてしまうのである。


国家についての話題はこちらを参照。→id:eirene:20040519


(本当に終わり)