ジュビロとマリノスの生中継を見ながら。


今、ハーフタイムに入った。


最近のJリーグ中継では、ハーフタイムにも監督にコメントを取るようになった。

さっき、NHKのインタビュアーはジュビロの監督に対して、単にコメントを求めただけでなく、「選手交代が早まりそうじゃないですか?」と言った。

「選手交代が早まりそうじゃないですか?」という言葉は、表面上は問いの形式を取っているが、実際にはサジェスチョンとして働いて、監督の思考と決断に割り込もうとする。
試合の結果に影響を与える可能性が(小さいかもしれないが)ある。


監督はプロフェッショナルである。試合の状況やその日の選手のコンディションについて、誰よりも把握している人だ。チームの成績について、ほとんどすべての責任を一人で負う立場にいる。間違った判断を続ければ、彼は解雇されるのだ。

そういう人に対して、アマチュアの、試合の結果に対して何の責任も追うことがない*1、たかだかアナウンサー風情が、無意識にであれ、サジェスチョンをする。
これはいかがなものか*2


ハーフタイムにコメントを取ること自体は(賛否両論あるが)悪いことではないかもしれない。
しかし、プロフェッショナルのインタビュアーを用意する、という条件をつけなければならない。プロのインタビュアーは、こういうときに、サジェスチョンと受け取られる可能性のある言葉を決して選ばない。



プロには失礼のないように。そして、自分が責任を(取りたくても)取れない範囲のことには、首を突っ込まない。←は自戒ね。

*1:「わかりました。監督に代わって私が責任取ります。」と言って責任を取ろうとしても取ることができない。

*2:もちろんインタビューイーもそんなことは鼻から承知の上でいるだろうけど、それに甘えていいのか。

また責任なんて言葉を使ってしまった。


キーワードに登録されている「責任」の定義はおもしろい。全文引用する。

事物・人物、あるいは言動などに対し、それが及ぼす影響・被害など、もっぱらマイナス面での損失があったと仮定される際に、その損失を自分が及ぼしたものと外的に判断されてもしかたない、とする判断。


“外的に判断されてもしかたない、とする判断”


“外的に判断されてもしかたない、とする判断”


前に私がid:ueyamakzkさんのところで、向こう見ず*1ではいけないとか覚悟が大事だろうとか書いてたのも、責任という概念が“外的に判断されてもしかたない”という性質を持っていると私が考えているからだ。


以下、この定義に従って議論を進めてみる。

*1:「向こう見ず」という言葉は、自分の言動がもたらす自他の将来の結果に対する無責任な態度を意味する。

9・11、それから交通事故にあって以来、感じ考えていること。


私たちの社会は、車を一つの軸として成り立っていて、私たちは多分にその恩恵をうけている。しかし一方では、人をひき殺したり逆にひき殺されたり、あるいは排気ガスによって花粉症が悪化したり*1するリスクを背負っている。

もし選択の自由があってそのリスクを望んで背負ったわけでなくとも、車社会の恩恵にあずかっている以上、望んで背負ったものと“外的に判断されてもしかたない”。


私たちの社会は、石油を一つの軸として成り立っていて、私たちは多分にその恩恵をうけている。そのことと、この数十年間中東地域に火種が撒かれ続け、今もたくさんの人が死んでいることは、まったく関係がないわけではないだろう*2。私たちは、9・11のような形で自分や自分の身近な人が死ぬリスクを背負っている。

もし選択の自由があってそのリスクを望んで背負ったわけでなくとも、石油社会の恩恵にあずかっている以上、望んで背負ったものと“外的に判断されてもしかたない”。

*1:私はスギ花粉にアレルギーがあるが、スギ林に行っても悪化せず、むしろ車の排気ガスの濃度に従って悪化する。「花粉症」というネーミングは、明らかに本質を欠いている、と私は思う。

*2:実際、私たちがなんと思ってようと、または何が正しかろうと関係ない。テロリストによって“外的に判断されてもしかたない”のであれば、テロが起こりうる。

リスクと覚悟


「リスク」という言葉はよく使われるが、その概念を正しく知っている人はあまり多くない。


リスクとは「見積もられた不確実性」という意味で、標準偏差に対応する。

将来に起こると予測できる出来事の幅が大きいとき、例えば大成功もありうるが大失敗もありうる、というようなときは「リスクが大きい」と表現する。逆に、将来に起こると予測できる出来事の幅が大きいとき、例えば大成功もしないが大失敗もしない、というようなときは「リスクが小さい」と表現する。

注意すべきは、「見積もられなかった不確実性」を、リスクとは呼ばないこと。それから、リスクは定義上、それを見積もる主体が持っている情報収集力や予測能力に従って主観的に決められるものである、ということだ。


自分の言動の結果として予測できる出来事に関しては、前もって覚悟できる。だが、予測できなかった出来事に関して前もって覚悟することは、そんなに簡単ではないだろう。私も、ついつい「だってこんなことになるなんて思ってなかったもん!」と言いたくなってしまうことがよくある。
将来の見積もりが主観的なものである、ということは、自分にとっては想定外の出来事だったとしても、もっと情報収集力や予測能力の高い他の誰かには想定可能の出来事だった、ということがありうる。そういう場合、「この程度のリスクも想定できないのか」というふうに自分の能力を“外的に判断されてもしかたない”し、能力が疑われなくとも「これくらいは覚悟の上でやったくせに甘えたこと言うな」というふうに“外的に判断されてもしかたない”。


覚悟できていないようなことが起こることもある、ということを覚悟しておく他ない。「だって…」という言葉をぐっと飲み込まなければならない。ただ己の不明を悔い、授業料を払って勉強したと開き直ることだけが許される。

責任の範囲と、損失を償う義務が生じる範囲


たくさんの人がいて、たくさんの人間関係があり、複雑な系として存在している私たちの社会においては、自分の言動の影響が思ったより広範囲に広がるということは、たまにある。例えばこのブログにしても、私が書いたことを読んだあなたの考え方が意識レベルまたは無意識レベルで変化して、あなたの将来やあなたの周りの人の将来に影響を与えるかもしれない。それは利益である場合もあるだろうし、損失である場合もあるだろう。


こういった間接的な影響を含むメカニズムによって、私の知らない誰かが、もとはと言えば私の言動のために、損失を被ったという場合(つまり私の言動がなければ、この損失は被らなかったというな場合)、私はそれについて責任があるのだろうか。

答えはYesだ。“外的に判断されてもしかたない”という定義によれば、責任がある、ということになる。
しかし、今採用している定義では、損失を償う義務については何も語っていない。損失を償う義務が生じるか、という問いであれば、YesのケースもNoのケースもある。


また、交通事故で人を殺してしまった、というような場合には、損失が不可逆な形で起こるし、損失の本当の大きさを見積もれない。

こんなことを言うのは馬鹿げているかもしれないが、人が死ぬとは、生きていればその人が将来したはずのことがなされなかった、ということでもあるし、以後この人の子孫が新しく生まれる可能性を排除するということでもある*1。家族や友人へ広がる2次的3次的な影響も小さくないだろう。また、この人との出会いがターニングポイントとなって他の誰かがしたかもしれなかったことの可能性も排除される、ということでもある*2。考えていくと際限がない。

この場合、事故の加害者は、このすべてについて責任があるのだろうか。
答えはやはりYesだ。しかし、このすべてについて損失を償う義務が生じるか、という問いであれば、Noだ。というか、償いようがない。


間接的な影響を含むメカニズムを考慮した場合や、損失が不可逆な形で起こった場合、損失の本当の大きさを見積もれない場合には、責任の範囲すべてについて、同じもので損失を償え、ということをやっていると、個人が償うべき他の人への損失が際限なく増え、個人のいかなるチャレンジも否定され、社会の存続自体が難しくなってしまう。それに、そもそもどうやって償ったらいいかわからない場合も多い*3


そこで、「責任がある範囲」の中で、「損失を償う義務がある範囲」を限定しなければならない。また、もとに戻らない場合は代わりの何かで償う、というようなことも決めたほうがいい。そういうことをやっておかないと、物事が円滑に進まなくなる。個人としても、恐くて何もできないということになる。

私たちの社会には、法律や裁判というものがあって、そこで決められた部分だけ償えばいいということになっている。また、不可逆な損失や代替不能なものの損失に対しても、代わりにお金で払えばいいということになっている。
思いがけず他の誰かに損失を与えてしまう私にとっては、ありがたいことである。

*1:そこには、アインシュタイン級の天才が生まれる可能性から、逆に大悪党が生まれる可能性まで、すべて含まれる。

*2:まあ、そういう人はまた別の似たような人との出会いでほとんど同じことをするかもしれないけど。

*3:だって不可逆ってもとには戻らないってことだし。

逆視点 〜タイヤに当たって死んだ子供や私の事故をどう扱うか。


しかしここで、視点を逆にしてみると、別の側面が見えてくる。


先日、タイヤに当たって死んだ子供の母親がTVで「うちの子は何も悪いことをしたわけでもないのに」とかいうようなことを言っていた。他にも(交通事故以外でも)、裁判の手続きを踏んで決められた償いを受け取ってもなお、「これで私の○○が帰ってくるわけではない」とのたまう輩はしょっちゅう見かける。

そう言いたくなるのも心情的にはわからなくはない。しかし、私たちの住む社会は「それは言わない約束よ」ということで成り立っている。


私も交通事故*1の後遺症に1年も悩まされて*2、大学での研究も滞るし、こんなちょびっとした慰謝料をもらっても割に合わんと憤る毎日だった*3。自分の体が全然言うことを聞いてくれなくて、自分はポンコツになってしまったのか、もう何の仕事もできないかもしれない、と想像して、涙で枕をぬらしたのを覚えている。あのときは本当に恐かった。今でも、事故の前に比べると体が疲れやすいし、無理が利かなくなったのは間違いない。私は損失のすべてを相手方に償ってもらってはいない。


私はその事故において、純粋に被害者であったが、私はこの事故について責任があるのだろうか。
答えはYesだ。私が自らリスクを取って運転していたことの結果であるし、リスクを取って車社会の恩恵を受けている結果でもある。そういったリスクには「私に過失がなくても事故に合う」可能性が含まれている。もし私にそれを見積もる能力や覚悟がなかったとしても、そのように“外的に判断されてもしかたない”。


では、この自分自身には過失のない事故によって私が被った損失について、そのすべてを相手方に償ってもらってはいないが、これをどう考えるか。

私たちは、もし他の誰かに損失を与えてしまっても、そのすべてを償わなくてもいい。そのことの恩恵にあずかる一方で、もし他の誰かに損失を与えられても、そのすべては償ってもらえない、というリスクを背負っている。

もし選択の自由があってそのリスクを望んで背負ったわけでなくとも、恩恵にあずかっている以上、望んで背負ったものと“外的に判断されてもしかたない”。

すなわち、私が「自らリスクを取って運転する」という場合、「私に過失がなくても事故にあい、その損失を加害者が決められただけ償っても足りない場合でも、受け入れるしかない」ということが、そのリスクの中に既に織り込まれている。もし私にそれを見積もる能力や覚悟がなかったとしても、そのように“外的に判断されてもしかたない”。


タイヤに当たって死んだ子供の場合も、子供−保護者という軸を盛り込む必要があるが、ほぼ同様の議論が成り立つだろうと思う*4


私たちの社会には、法律や裁判というものがあって、そこで決められた部分だけしか償ってもらえない。また、不可逆な損失や代替不能なものの損失に対しても、代わりにお金でもらったらそれ以上文句を言わないように、ということになっている。

思いがけず他の誰かに損失を与えられてしまう私にとっては、ありがたくないことであるが。

*1:ちなみに私に過失はない。停止すべきところで停止していたところに追突された。

*2:ベッドから起き上がれなかった日が何日も続いた。

*3:憤ると言っても、事故の加害者に対する憤りはほとんどなかった。彼に訪れた種類の「ついうっかり」が私に訪れて、立場が逆になったかもしれないと思うと、彼を憎めなかった。しかし確かに私は「何か」に対して憤っていた。今は憤っていないかというと、実は今でも憤っている。それはそれでまた複雑な話になるので、後日あらためて書くことにしよう。

*4:さらに欠陥を隠していたという2重の問題があるが、それにしても、罪を認めて謝罪し、決められた償いを果たすのであれば、それ以上の追求はできないことになっていると言えるだろう。

さいごに。


“外的に判断されてもしかたない”という言い回しにインスピレーションを受けて、今までどうしても言語化できなかった思いが、一気に言語化してきた。

私はこのことを2〜3年くらい前から考えるようになった。もしかしたら私以外の人にとっては、ずっと前からの常識だったのかもしれないし、それともさっぱりわからんという話になってしまうのかもしれない。


私の書いていることは他の人が読んで意味がとれるのだろうか。少し不安。
なんでもかまいませんのでコメント・Tバックいただけたらうれしいです。

(終)