●選挙を楽しんでみた。●

昨日の参院選は、個人的にすごく楽しませてもらった。
支離滅裂になるだろうけど、今日は思うが侭に書いてみることにする。


   ★


あまり熱心じゃない有権者である僕の情報ソースは、ドアポストに突っ込まれていた公報だけだった。ニュースも全然見なかった。自民党に投票しないことだけは決めていたものの、以前書いたとおり、民主党は自分が政権をとらないことを前提にした批判ばかりしているというイメージを僕は持っていて、応援する気になれない。だからといって、他に支持できる党もない。閉塞*1


「白票でも、いっか」というのが当日朝の正直なところだったが、棄権することは選択肢から完全にはずしていた。




僕は政治参加の意識が高いから、というわけではない。



数ヶ月前に全面的に建て替えたばかりの近所の小学校が僕の投票所で、中を一度見てみたいと前々から思っていたところだったのだ。
外観からはとても小学校とは思えないような、大きくて透明なガラスとアッシュ色のコンクリートの構造、銀色に光る鉄パイプ(みたいなもの)でデコレートされたモダンなつくり。かっこええじゃないか。

でもちょっと待て。普通、体育館が投票所になる。前の選挙のときもそうだった。校舎の中なんて見れるわけがない。今考えると、校舎の中を見れるのを信じて疑わなかった僕は、頭のねじが数本抜けている。ところがラッキーなことに、体育館は校舎の外ではなく校舎の2階にあった*2。さすが最新型! こうして僕は、選挙のスタッフが玄関から校舎内へと誘導していることに何の疑問も抱かず、わくわくしながら校舎に入った。

もちろん一部しか見ることができなかったが、僕が15年くらい前に通っていた小学校のイメージとは全く違うということはよくわかった。床がきれいなフローリングで、壁も木を基調としている。段差がなくエレベーターもついている。窓だけでなく、壁の代わりに大きなガラスを使っているところもあり、採光がよく明るい(子供たちがそのガラスを割ったりしないのか心配だが、割れないのを使っているのかな)。太陽光発電の設備もあるようだった。

僕のイメージの小学校の建物と言うと、リノリウムの床で白く塗られたコンクリートの壁。すぐ割れる薄っぺらいガラス。外観は小汚いクリーム色。「サル専用強制収容所」でも書いてありそうな感じだ。違いを見せ付けられ、「すっげーなー。小学校もここまで来てんのか。」と感心しまくり(今これを書きながら、「俺も老けたな」という思いが少し混じってきた)。




目的を半分以上果たし終えた僕は満足して投票に向かう。


結局、選挙区は現職で面構えのよかった民主党の候補に入れることにした(彼は当選した)。校舎を見て気分がよくなり、気持ちが大きくなったからだ。「まあ、しょうがねえなあ。政権担当能力を持った野党が出てくるとしたら、今のところここしかねえもんなあ。ま、応援しとくという意味で、一票。」


比例代表は、大政党に入れるのがなんか嫌だったけど白票もなんだし、みどりの会議にでも入れてやろうかと思ったが、投票用紙を見て僕は思わず立ち止まった。


「政党名か候補者名を書いてください。」


な、何?


「政党名か候補者名を書いてください。」


え? 比例代表って、政党だけなんじゃないの? どういうこと?
僕は混乱し、鉛筆を右手に持ったまま、しばらく固まっていた。


そのとき突然、頭の中でポツッとレコードに針が落ちた音がして、歌が流れ出す。

JASRACが恐いので歌詞は書かない(笑)けど、川は流れてどうのこうのとか、泣けとか笑えとかいうあの歌だ。


え、ええっ! とっ、止まらない! もう止まらないよ〜(泣)。


そして僕は、みどりの会議ではなく、「喜納昌吉*3と書いて帰ることになった。
帰り道、「結局、両方とも民主党に入れてしまったなあ」という思いと、喜納昌吉の歌に負けたみたいでなんとなくすっきりしないけど、まんざら悪くもないか、という思い。複雑。



帰ってきてからインターネットで調べてみると、比例代表は「非拘束名簿式」とやらなんだそうだ。
以前の拘束名簿式は、政党名を書けば、それに基づいて各政党の議席数が割り振られ、その政党が決めた名簿の順番に従って議員が選ばれる。非拘束名簿式では、政党名が書かれたものと所属する候補者名が書かれたものを合わせたのが政党の得票となり、それに基づいて各政党の議席数が割り振られ、政党内のランキングは各候補者の得票によって決まる。
ふむふむ、なかなかおもしろい制度じゃないか。少なくともエンターテインメントとしては。



夜、ビールを飲みながら選挙速報を見る。
大勢もはっきりしないうちからの自民党叩きにはうんざり。やめれ、ばかマスコミめ。最終的には(議席数で言えば)自民党のダメージはそんなでもなかった。


大勢が決まっても、喜納昌吉の当落ははっきりしない。非拘束名簿式だと、議席数の決定と、どの議員が当選するかの決定にはタイムラグがあるわけだ。結果を楽しみに待ちつつビールをすする。



速報の途中で、喜納昌吉の事務所の生中継がちょっとだけ放送された。
彼は明らかに「有名人候補者」なんだけれども、マスコミにも取り上げてもらえなかった。民主党のサポートも満足に受けられず、財産きり崩した。ほとんど有権者ダイレクトでやった。そんなようなことを言っていた。誰かが「次の選挙があるさ」とジョークを飛ばすと、こんなに財産消えてしまうならもう二度とやるか、という感じに答えていた。
そのとき、民主党比例代表で19議席と伝えられ、彼は17番目くらいだった。きわどい。



実を言うと、僕は『花(すべての人の心に花を)』の喜納昌吉オリジナルのは聞いたことがない。この曲は国内外で恐ろしい数のミュージシャンにカヴァーされている*4。僕はそのうちのいくつかを聞いている。初めて聞いたのは確か10年くらい前、テレビでBeginが歌っていたもの。外国かどこかにホームステイして、そこのホストのおばあちゃんに向けて歌った、みたいな、そんな番組だった気がする。僕はそのシーンを一生懸命見て聴いて、エネルギーを感じた。

歌そのものも素晴らしいんだけど、こういう歌が沖縄から出てきたということに、僕は心打たれてしまう。沖縄は広島、長崎と並んで「戦争に対して最も怒りをあらわにしていい日本三大地方」のはずだ。それであっても「泣きなさい、笑いなさい」なんだよ。しなやかでやわらかい強さ、キャパシティの大きさを感じるじゃないか。美しい歌。

喜納昌吉の選挙のキャッチコピーは「すべての武器を楽器に すべての人の心に花を」だった*5。武器を楽器に変えるプロセスを、怒りの感情で支えていくことはできない。泣くことと笑うこと。それしかない。

「兵器ではなく生活器を」と言ったフラーにも通じるなあ、とか勝手に思いながら自分が喜納昌吉と書いたことの理屈付けをして、本当は彼の歌の力に書かされたのだという事実を隠蔽しつつビールをぐいっと飲み込むと、僕の思考は窪塚洋介のことと自分の中学校時代の出来事へと飛んだ。




窪塚洋介が自殺しようとしたのか、それとも誤って落ちたのかは僕にはわからない。それは置いておいて、彼と親しい人が「自殺してもおかしくないくらい落ち込んでいたのは事実だ」とテレビで言ったのを、先日、昼飯を食いに言ったラーメン屋で偶然目にした。

彼が落ち込んでいたのは大麻に関する発言(大麻を植えれば永続的に紙が生産できる、だっけ?)へのバッシングだったわけだけど、自分が一生懸命やっていてもああやってつぶされてしまうことへの徒労感というか、何だか自分が必要とされていないような気持ちになったという話だ。僕は少しシンパシーを感じた。

ラーメン屋のおばちゃんは、「死んじゃえばよかったのに」とか、「この人、前から頭がおかしかったんだ」とか、大麻の話になると「ヤクやってたんだよ、きっと」とか言っていて、僕はすごく嫌な気分になった。



フラーの言った「兵器ではなく生活器を」も、喜納昌吉の「すべての武器を楽器に」も、窪塚洋介大麻に関する発言も、無理矢理まとめてしまえば、技術と人の意識の問題なんだろうと思う。「薬物としては絶対に使わない。紙の原料としてだけ使う。」という意識をすべての人間が持ちさえすれば、大麻ですら有効活用できてしまう*6。窪塚が言いたかったことは、結局はそういうことじゃないんだろうか。


僕は中学生の頃、先生に英語弁論大会に出てみないかと誘われたことがある。僕は「じゃあとにかく原稿だけでも書きます」と言ってOKした。日本語で書いた原稿を国語の先生に見てもらい、それから英語の先生に教えてもらいながら英訳するということになった。

僕は、環境問題やら社会問題やら、そういうのを最初にごちゃごちゃと書いて、それから「こういう問題が技術的に解決可能になるのは時間の問題だが、より大きな問題は人の意識だ。人の意識が変わらなければ技術が発達しても問題は解決しないが、逆に人の意識さえ変わってしまえば思ったよりも早く問題は氷解してしまうだろう」という感じのことを書いた(もちろん、もっともっと拙い文章で)。でも、こんな話は中学生の僕には荷が重すぎた。思考力も文章力も足りなさすぎた(だって僕がこういう話をできるようになったのはそれから10年後、今から半年くらい前の話だもの)。

国語の先生に原稿を見せると、「環境問題について書くのか、社会問題について書くのか、何について書くのかテーマをしぼって書きなさい。」と言われてしまった。僕はテーマをしぼったら本質を見失うという直観があって、その話を書こうとしていたわけなのに。それで僕は、「じゃあ、やめます。僕の言いたいことを理解して引き出そうとしてくれない人になんて添削されたくありませんから。」と言って、そこで話は終わってしまった。

今の僕だったら、「さて、今日のこの話の原稿を書くにあたって先生は『テーマをしぼれ』とおっしゃいましたが、その『テーマをしぼって各個に問題解決に当たる』という手法は、環境問題や社会問題などの複雑な問題に対しては、さほど有効でないのです。今日は、そういった現実に起こっている問題と人間の持つ意識がどのように関連して連動しているかということ、そして、問題解決に向けてどこからアプローチしていったらいいのかということへの僕の考えを、事例を交えながらお話したいと思います。」という感じで話を始めるかもしれない*7




…とかいうことをぐだぐだと考えながら、喜納昌吉の結果が出るのを待っていた。その頃、僕はビールを飲み終え、アサヒのカクテルパートナーのシーブリーズを飲んでいた。ウォッカ+グレープフルーツ+クランベリーという組み合わせ。僕はそれを聞いただけで口元が緩み、ヨダレが垂れそうになって、アル中のような顔になってしまう。


アル中と言えば思い出す。
あなたはアル中の人を見たことがあるだろうか? 幸いにして僕の家族や親戚にはアル中はいないのだけれど、1度だけコンビニの前で見かけたことがある。どこかのおばあちゃんだった。
彼女はステテコ姿でコンビニにやって来て、カップ酒を買う。コンビニを出るとくずかごの前に立ち、カパッとふたをあけて捨てる。それから、しわしわの口がカップの縁に吸い寄せられ、やわらかく接触する。ゆっくりと首の角度が上がっていく。ゴクン、ゴクン、という音はほとんどしない。酒は静かに、しかし絶え間なく、流れ込んでいく。ワンアクションで、カップ一杯の酒がなくなった。彼女はコップをくずかごにガランと落とすと、少しだけふらつき気味に短い歩幅でゆっくりとコンビニから去っていって消えた。僕はコンビニの向かいで信号待ちをしながら、そのおばあちゃんから目が離せなかった。




と、ともかく、シーブリーズを飲んでいると、ついに結果が目に飛び込んできた。


  喜納昌吉 民主・新 当選確実


あ、当選した。

時間は覚えてないけれども、夜中の2時とか3時頃だった気がする。




選挙って楽しいなあ。


僕が成人してから始めて投票したのは、平成12年(西暦2000年)6月25日の第42回衆議院議員総選挙だった。その年の4月に小渕恵三が亡くなって、森喜朗が首相になった。その頃から既に森喜朗の評判はガタガタだったのに与党が勝って、第二次森内閣が組閣されたのだった。

僕は当時入っていた大学のサークル室に仲間と集まり、ビールを飲みながら選挙速報を見ていた。石川2区の速報が出て、森喜朗がダントツで当確になると、みんなこぞって「おい! 石川2区の有権者の奴ら! お前らあったまどっかおかしいんじゃねえのか!」とテレビに向かって罵声を浴びせた。

僕の選挙区はと言うと、愛知和男(元国務大臣 環境庁長官 防衛庁長官)という自民党の大物がいて、彼に敵なしと言われていた。僕は自民党が勝てば森内閣が続くということだけはわかっていたので、それだけはかんべんしてくれい、と民主党の候補に投票した。


そしたら… なんと、愛知和男落選。当選したのは僕が投票した候補者だった。


だからと言って政治が変わるとか、そういうのでは全然ないんだけどね。エンターテインメントとして見れば、選挙もなかなかおもしろいというのが、そのとき以来、僕にすり込まれ続けているのだった。




さて、最後は少し真面目にまとめ。


喜納昌吉が当選したからといって、今すぐ何かが変わってわけではないだろうけど、彼のような感性を持った人が国会にいるのは悪くないような気がする。僕は今の政治には、問題の核心に遠慮なく迫るプリミティブな感性が欠けていると思っている。


例えば、僕らはすぐ「豊か」とか「幸せ」とかいう言葉を使う。僕らが豊かに幸せになるのを助けてくれる人を国会に送り込もうと思う。
でも、じゃあ「豊かさ」ってなんだ? 「幸せ」ってなんだ? と考えると、これがなかなか難しい。これ、他人に聞かせても納得してもらえるような自分なりの答えを持っている人ってどのくらいいます? ひょっとすると、みんな自分で何が欲しいかわからないままに、それが欲しいと言ってるのかもね。
それにしても、「豊かさ」をきちんと定義しておくのって政治や行政には欠かせないんじゃないの? だって、これこそ核心じゃないか。それなのに、恥ずかしいのか考えたくないのかどうなのか知らないけど、誰も「豊かさとは何か」を定義して聞かせようとしない。だから表面上の数字だけ見てどうのこうのという話になってしまう。
こういう根本的なところにもう一度立ち返って考えよう、話し合おうとすることができる人が必要なんだろうと、僕は思う(し、僕もこういうところに常に立ち返って、これからもブログを書いていきたい)。


と言っても喜納昌吉がそういうことができる人なのかどうかもわからないけど、『花』からはそういう何かを感じなくもないとりあえず見守ってみようと思う。

とか書くと、まるで前から彼を支持してたみたいにみえるな。あはは。歌のエネルギーに押し切られてくやしかったりうれしかったり変な感じなんだよね。



◆追記
一旦書き終えた後にインターネットで簡単に調べたところ、少しだけ期待度が高まった。結局世の中を変えていくのはアートなのかもね。アートってウソつけないもんな。


喜納昌吉&チャンプルーズ 公式サイト
http://www.champloose.co.jp/


かなり精力的にやってきているようだ。ひょっとしたら、従来の意味とは違った「たたき上げ」の政治家ってことになるのかもしれない。


(終)

*1:もしかすると、この閉塞感は、「政権交代が行われずに一定期間が過ぎれば、野党は次第に政権担当能力を失う」政治システムを構築してしまったという、初期段階のミスから導かれた自然な帰結なのかもしれない。

*2:この体育館は、小学校に併設している市民施設と共有されていて、そちらからも入れる。休みの日や夜は借りることもできるようだ。仙台市街地の割と新しい小学校には、この手の施設合体型がいくつかある。有効活用できていい。最近の流行りなんだろうか。

*3:きな・しょうきち

*4:未確認情報だけど、『花』の全世界的セールスは『Imagine』に並ぶとか超えるとかどうとか。中国人の9割がこの曲を知っているとかなんとか。

*5:各党、他の候補者のコピーと比べてみよう。何をしたいのかをはっきり表現しているものはほとんどない。

*6:「現実的にはそれは無理だ」という批判は受け付けない。なぜならば、「現実的にはそれは無理だ」という人の意識こそが、それを現実的に無理なものにしているというのが、ここでの主張だからだ。

*7:でもそんなの、数分で話すのは無理だ。クリチバの話だって、まだ途中なのに原稿用紙にしたら何十枚かになっちゃってるんだし。


2週間も更新が滞っておりました。突然止まって何もコメントがなかったので、読者の方にはご心配をおかけしたかもしれません。数名の方からは心温まるメールをいただきました。ありがとうございました。個別にお返事することはできませんが、大変感謝しています。



どういうわけかわからないのですが、書きたいことはたくさんあるのにキーボードに触ることすらできなくなっちゃう、というようなときがあります。「少し休みます」とすら書けなくなってしまうのです。自分でも何がどうなっているのかよくわかりません。別に元気がなくなったとか疲れたとか気分転換が必要だとか、そういうのでもありません。


僕には前々から、こういうふうに突然スイッチが切れるような癖があります。ときにはどっぷりと鬱状態に入ることもあります*1

昔は「やりたいのに自分の身体が言うことを聞いてくれない」と悩んだり、「どうして俺はできないんだ!」と自分を責めたり、「早くやってしまいたいのに」と焦ったりすることもありました。ですが今は少し違っていて、「こういうのも自分のリズムなのかな」というふうに自分を受け入れて、自分が自然と行動に向かうまで待つしかないのかな、なんて思うようになりました。

もしかすると、「今やっていることをそのまま続けていると、この先何かまずいことが起こる」ということを無意識のうちに察知して、自らをキーボードから遠ざけているのかもしれない、なんていうような気もします*2。で、ちょっと方向性を見直してみたり。


というわけで、文章を書かないということを除いては、割と普通に過ごしていました。どうやらキーボードに触れられるようになったみたいなので、明日からまた続きを書きたいと思います。


Bon voyage!


(終)

*1:逆に、文章を書いているとき、何かの行動をしているときの僕は躁状態。自分でも信じられないくらいのエネルギーが発揮される。僕と会った人はだいたいみんな驚いて帰る。まるで何かが憑依したんじゃないか、くらいなもんだから。これだから躁鬱はやめられない。

*2:これが正しいかどうかはよくわかりません。だって比べることはできませんから。でも、これによってトラブルを未然に防げたとしたらお得かも。

クリチバの名を世界に轟かせたバスシステム


そう、そしてクリチバと言えば何と言ってもバスシステムだ。車のためでなくて人のための街づくりには、優れた公共交通システムが必須なのだ。公共交通機関の利用が自家用車の利用に比べて十分に便利なものであれば、街を走る車の台数はぐっと減る。環境にも当然やさしい。

クリチバ市の低コストかつ機能的なバスシステムは1990年に国際省エネルギー協会に表彰され、世界へとそのコンセプトが伝わって、特に発展途上国を中心に活用されている。

僕が最初にクリチバに興味を持ったのもこれだ。日常生活において、自分で自動車やバイクを運転するよりも公共交通機関を利用したほうが安くて快適ならば、僕はそっちを選ぶ。そして仙台がそうであれば、僕は交通事故に遭うことはなかったかもしれない。そんな思いもある。


公共交通システムを導入するに当たって、人口100万の都市は地下鉄しかない。これは専門家には(少なくとも当時の専門家には)常識的な考え方だそうだ。しかし、クリチバには地下鉄をつくるようなお金も技術もなかった。
レルネル市長はこう語る。

そこで、地下鉄とは何か、ということを考えました。そして、地下鉄が有する要素は、「速度」「頻度」「快適性」「信頼性」であるということが分かりました。


※服部圭郎著『人間都市クリチバ』(ISBN:4761523395) 44ページのインタビューより引用

簡単に解説すると、

  • 速度 目的地に着くまでの時間が短いこと。停車場所と現在地・目的地が近いこと。
  • 頻度 便数が多いこと。
  • 快適性 乗っている間の揺れ。座席の座り心地など。
  • 信頼性 時間通りに駅(バス停)に来ること。目的の駅(バス停)時間通りに着くこと。

といった感じか。加えて、自動車やバイクと比べたときのコストパフォーマンスも考えなければいけないだろう。


こういう地下鉄のいいところを、コストのかからない地上の交通システムで何とかできないか。もしバスで可能なら、もう道路はあるから初期投資費用がぐっと抑えられる。レルネルらはそう考えた。


普通、バスというと、遅い、なかなか来ない、乗りにくい、時間通り着かない… できれば乗りたくない。しかし、クリチバのバスシステムは、そういった問題をほとんど克服した。


参考→http://www.geocities.com/Tokyo/Ginza/5416/world/curitiba1.html *1


クリチバ市のバスシステムの特徴には、

  • バス専用レーン設置による高速走行
  • バス優先に信号が変わるシステムの導入
  • バス会社への走行マイルごとの報償支払い
  • 放射状、環状を組み合わせたバスルート
  • 市内一律料金
  • 2〜3両連結のバス
  • チューブ型バス停

などが挙げられる。


まずレルネル市長は、バス専用レーンを設置した。路面電車風に、道路の真ん中がバス専用になっているのだ。こうすることで、バスの高速で時間通りで快適な走行環境を維持できる。バス優先に信号が変わるシステムも、上の効果を後押ししている。

しかし、バス専用レーンに乗用車が乗り込んでしまったらお終いだ。そういうモラルハザードが起こると、システムがフリーズしてしまう。これを防ぐためにレルネルは、バスレーン設置当初、空のバスでもかまわずガンガン走らせた。乗用車が乗り込めないくらいに。走行マイルごとに報酬が支払われるのだから、バス会社としても文句はない。これには、「バスがこんなに走っているんだったら、俺もバスで通勤しよ。そのほうが便利そうだし」というふうに、需要を喚起する効果も見込まれていた(実際、その通りになった)*2

乗車客からの直接の支払いではなく走行マイルごとに報酬を渡す方法は、乗車客の多い路線をバス会社どうしで奪い合ったり、逆に客の少ない路線にはバスがなかなか走らなかったり、というトラブルをも解決している。また、乗車客の多い路線の車内での超過密状態を防止することにもなっている。


バスは、綿密に計画されたルートを走る。
前から読んでくれている読者にはおなじみのお絵描きタイム。紙をペンを用意して。

まず、紙に大き目の正五角形を書く(これは補助線なので点線、または薄く、または細く)。
それから、紙の中央に小さい正方形を書く。そこが都市の中心だ。その正方形から、正五角形のすべての頂点に向けて直線をかく。それが都市の中心と郊外を結ぶ放射状のバスルートである(そして、各頂点からはまた、放射状に周辺と行き来するルートがある)。
次に、小さい正方形を中心に、3つの同心円を五角形の内部に書く。これが都市内部の環状ルートだ。

放射状ルートと環状ルートの接点にはターミナルがあって、乗り継ぎができるようになっている。しかも市内一律料金で、乗り継いでもかかるお金は変わらない。このターミナル内部には、市役所の出張所などの各種施設があり、市民にとっては便利なんだそうだ(そこへ行って返ってくるだけならば片道料金で済んでしまう)。

これがクリチバ市のバスルートの概要である。


バスは2〜3両連結で、人を多く運べる上に、カービング性能が向上されている。中古のバスは、貧しい地域の人のための移動式職業訓練施設などとして、後世を過ごしているんだそうだ。


そして、なんといっても目を引くのが、黒っぽくて半透明のアクリル製チューブ型バス停だ。そのフォルムは近未来を想像させるもので、すごくカッコイイ。しかもカッコイイだけでなく、いくつかしかけがある。

短くまとめてしまえば、乗り降りが地下鉄風なのだ。
バス停にはバス停員さんがいる。彼に市内一律の料金を支払い、バス停に入る*3。バス停の床の高さは、バスの昇降口の高さと同じになっていて段差がない。バス停には車椅子の方のために、貨物トラックによくあるような小さいリフトが付いている。完全バリアフリーだ。また、バスの側面には複数の大きなドアがあり、バス停に止まると一気に全部のドアから乗り降りできる。もうお金は払ってあるから、それでいいわけだ。

日本式の、1人ずつ乗車券を取りながら狭い階段を昇る(車椅子の方はさぞかし大変だろうと思う)のと比べたら、なんと3分の1くらいの時間で済むんだって(そのバス停で乗り降りする人が多ければ、時間短縮効果はさらに大きくなるだろう)。

このバス停は、クリチバ市に住むすべての住民の家から500m以内にバス停があるように、という考えのもとに配置されているのだそうだ。


…と、クリチバのバスシステムの特徴はこんな感じ。上のリンクから写真も合わせてみてもらえるといいと思う。


クリチバ市民の自動車保有率は首都ブラジリアに次いで高いが、通勤手段として公共交通を利用する確率が75%という非常に高い数字になっている(地下鉄もあるサンパウロリオデジャネイロでさえ50%程度)。これは、普段は車よりバスのほうが便利なために、市民が積極的にバスを選んでいることを意味している。きっと自家用車はバカンス用なのだ。

このようにクリチバのバスシステムは市民の需要を呼び起こして受け入れられた結果、(バスは通常、初期投資は安いが毎月の利益は小さいと言われるにも関わらず、)収益性が高くなっている。地下鉄の200分の1のコストで、それと同様か下手すればそれ以上の効果が得られているのだ(しかも変化に対する柔軟性もバスのほうがずっと高い)。



ところで、バスシステムが単独としていかに優れていようと、土地利用とマッチしてなければ全然意味がない。「土地がどのように利用されているか」は、「人がどこからどこへ移動するのか」を決める。人の移動様式と移動方法がミスマッチではおかしなことになる。逆に、交通と土地利用がマッチすれば大きな効果が得られるわけだ。
クリチバ市では、この交通事業と土地利用事業のシナジー(相乗効果)的な関係を見逃さず、バスシステムの整備と土地利用計画の遂行を同時に、そして統合的に進めている(土地利用は環境保護や治水といった問題とも関わってくるが、その点も統合的に進めている)。

明日は、土地利用計画とその実践について、主にバスシステムと絡めながら見ていこう。



●街へのシステムアプローチ 3●(id:Bonvoyage:20040807)へつづく。

 

*1:この『世界のまちづくり見聞録』(http://www.geocities.com/Tokyo/Ginza/5416/world/world.html)を書いている、まちづくりプランナーの後藤太一さんは今、「ComPus 地域経営支援ネットワーク」(http://www.compus.ne.jp/)の理事長をされている。仙台の仕事もなさっていて、講演を聴いたことがある。詳細は書かないが、日本のまちづくりは「お金じゃないんだよ」という雰囲気があって、ビジネスを毛嫌いする傾向や費用対効果を無視する傾向があり、どうもいけない。もっとビジネスマインドを持たなければ。というような意味のことを言っていたのが一番印象に残っている。ビジネスマインドと言えば、機会費用(つまり何かにお金や時間や労力をつぎ込んだら、その分だけ他の何かはできなくなるんだよ、ということ)やキャッシュフロー(借金するならば、その利子率よりも高い投資収益率が得られるように組み立てなければいけない、リスクが大きいならば、その分利子率よりもずっと高い収益率を確保できるようにしないと(つまりハイリスク・ローリターンでは)割に合わない、など)についても、もっと勉強しといたらいいのに、と僕は思う。

*2:そう、需要というものは、ありもしないものには生まれない。人は知っているモノ・サービスしか欲しがらない。まず知らしめなければ需要は生まれないのだ。これはどんなビジネスでも同じだ。レルネルは、そういう人の心理を知り尽くした人のようだ。

*3:お市内一律の料金制度には、短距離しか移動しない割とお金持ちの人から、長距離を移動しなければならない貧しい人への富の移転という意味もあるのだそうだ。

花通りの危機を救った、平和の戦士たち。


反対派が車で乗り込もうと押し寄せていたとき、なんと花通りは子供たちの楽しそうな笑顔で湧きかえっていた。

なんとレルネルたちは、歩行者天国を白い紙で覆い、子供たちに水彩絵の具を渡し、自由にお絵描きさせていたのだ! あっはっは。


それを見た反対者たちは全身の力が抜け、声を出す気力も失ってしまったことだろう。どんな顔をしたのか見てみたいよなあ。
彼らはすごすごと退却し、反対活動も諦めてしまった。



…ところが1ヶ月も経った頃、商店主たちはある異変に気づく。

「売上が、上がっている?」

これ以来、反対派だった商店主たちも、レルネルの考え・手腕を認めることになる。そして、この歩行者専用道路の活況を見た周囲の商店主は、「こっちも同じようにやってくれ!」と市に要求するようになった。
現在、花通りは6ブロックまで延長され、夜遅くまで人々で賑わうクリチバ市の象徴的な通りになっている*1


また、今でも毎週土曜日には、花通りの危機を救うために「戦った」平和の戦士である子供たちに恩返しするために、道路をキャンバスに絵を描くイベントが開催されているんだそうだ。


(ちなみに、クリチバ市はこの花通りの事業について、同じ「花」の名を冠する大阪万博で表彰されている*2。)


こうしてレルネルは、自らの政治生命を賭けた大博打に成功し、市民の信頼を勝ち取った。そしてここから、見ているだけでも楽しくなってしまうようなアイデアを次々と実現させていくのだった。

*1:今後、もっと延ばすらしい。

*2:にゃにゃ! はてなキーワードによると「大阪万博」と「花の万博」は違うではないか! 前者は1970年、後者は1990年。クリチバが表彰されたのは後者。

Break out!


1972年の冬、ある寒い日の夜、金曜日から土曜日の夜にかけて、クリチバ市の中心通り*1に奇妙な出で立ちの集団が現れた。そう、彼らこそクリチバ市の職員。

そしてなんと彼らは、電動ドリル〜da da da! とアスファルト舗装を引っぺがし始めたのだ。東へ西へブレイクする職員たち。

ある者は自動車通行禁止の標識を立て、またある者は迂回路を指示する看板を立て。引っぺがした後には所々に花壇を設置し、ベンチを置き、それから石畳を敷き、残りをきれいに舗装し直した。彼らは72時間で2ブロック分の作業をやり遂げてしまった。

ブラジル初、いや、ラテンアメリカ初の歩行者天国「花通り」の誕生だった。


ゲリラ作戦をしなければならなかったのは、当時、世界的に歩行者天国の例が少なく、その経済効果が市民に知られていなかったからだ。商店街の店主たちは「自動車が通れなくなったら客足が遠のいて売上が下がるじゃないか!」と猛反発していた。そこで、強硬手段に出たわけだ。


週明け、店に戻ってきた店主たちは、まず呆然としただろう。そして次に、怒る。「これで売上が下がったらどうしてくれるんだ!」
大反対運動が起き、翌週には新しく舗装された歩道に自動車で乗り込む計画が立てられた。


しかし事前にこの情報を手に入れたレルネルは、素早くこれに対応した。

100台のパトカーと1000人の機動隊を出し、反対派を圧力で押し黙らせ、乗り込もうとする車には次々と発砲し、警棒でぼこぼこにした。


…わけではない。

レルネルはここで、クリエイティブかつユーモアに溢れた方法で、反対派の計画に対処したのだった。


車に乗り、徒党を組んで意気揚揚と押し寄せてきた反対派の人たちは、そこでまたもや、あんぐりと口を開けてしまうことになる。

彼らがそこで見た光景とは、一体何だったのだろうか?

*1:そこは商店街にあり、都心でも交通量の多い道路。

ゲリラ決行前夜 〜公共事業部部長とのやり取り(半妄想)


レルネル市長(以下「レ」)「これ、やるのにどのくらいかかる?」
公共事業部部長(以下「公」)「5ヶ月はかかります。」
レ「いや、それじゃあ話にならない。そんなに時間はないんだ。」
公「3ヶ月ならどうにかなるかもしれません。」
レ「いやいや、72時間でどうにかならないか?」
公「72時間! そんなの無理です。すべて準備をすれば… それでも1ヶ月はかかります。」
レ「駄目だ。72時間でやるんだ! 私たちに許されている時間は72時間しかないんだ!」

若きレルネル新市長の大博打


レルネルの信念をよく表している言葉がある。

都市は自動車のためにではなく、人間のためにあるべきです。

1960〜70年代当時、世界中のありとあらゆる街が自動車中心の街づくりに邁進していた。レルネルはそれをよく思わなかった。ブラジルの多くの都市もそちらへ向かっていた。クリチバも例外ではなかった。

世界中で、都心に通過交通を通らせるような計画をして、都市としての昨日を維持できているものは一つもないのです。都心の道路を交通機能に偏らせると、都心の魅力は激減するのです。これは、私にとっては当然のことです。しかし、市民にとっては、これは理解しにくいことでした。


※服部圭郎著『人間都市クリチバ』(ISBN:4761523395) 44ページより引用

確かに市民は、自動車が便利になったほうがいいと思うだろう。多くの日本人だって、そう思うだろうと思う。これを説明するのは難しい。

そこでレルネルは、自分の考えが正しいことを証明するために、着任早々、政治生命を賭けた強行突破、ゲリラ戦に打って出た!